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教師たちは子どもとどう関わるのか【レッジョ・エミリアの教育】

前回はレッジョ・エミリアの幼児学校で使われている素材について紹介しました。

今回は、その素材がある環境の中で、先生達はどのように子どもと関わっているのか?という点に焦点を当てて紹介したいと思います。

まずは、写真と共に、ある事例を紹介します。

グローリアという女の子が粘土で馬を作ろうとしています。

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彼女は、2つの粘土を転がすことから始めます。


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それから、小さなヘビを曲げます。


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足をたして…


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崩れてしまう…


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圧力で形が大きく変わり、馬が変形してしまいました。


あなたなら、ここでどのような関わりをしますか?

レッジョ・エミリアの先生は、馬の作り方を教えることはしません。家に帰ってから大人に聞いてみたり、友達に聞いてみたりと、自分でその方法を探るようにと促します。

彼女は自分で情報を集め、再び馬を作りました。


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完成。


もし先生が立ち上がらない馬を見て、「こうすればいいんだよ。」と、作り方を教えていたとしたら、きっとすぐに彼女は馬を作ることが出来たでしょう。

でも、その過程で彼女が問題を解決するために自分で情報を集めることはなく、また、自分が思い描く馬を作ることもなかったと思います。

レッジョ・エミリアは、「アート教育」と言われることがあるように、創造性を育むことを大切にしていますが、それに加えて、他者と協働することや自分で問題を解決するために行動する力も同時に大切にされています。


別の事例を紹介します。

あるクラスで花の絵を書きました。
多くの子どもは、こんな絵を描きます。

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次に先生は、「外へ出て、花を見に行きましょう。そして花びらや茎、細かいところがどうなっているのか、よく観察しましょう。」と伝えます。

子ども達は外へ出て、植物の細かい仕組みを観察します。


外から戻ってきて、再び子ども達が描いた絵がこちら。

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学習のプロセスは、創造的なプロセス。

子どもは決して未熟な人間ではなく、一人の探求者なのです。教師たちは、彼らが持っているたくさんの言葉を表現するための環境を整え、彼らの言葉に耳を傾け、それをいかに表現するかを考えます。

「一般的な学校の中には、子どもの言葉に耳を傾けない教師がいる」とレッジョ・エミリアの先生は言います。そうなってしまうことについて、カリキュラムがあることも理由の一つだと考えています。

子どもが間違えたら間髪を入れずに訂正しなければいけない。自分で答えを探す時間など子どもに与えてはいけない。

カリキュラムがあることで、教師たちはそのように考えてしまうからです。


私達が子どもとの教育活動の中で大切にすべきこととは何でしょう?

幼稚園や学校の中で実践されている教育活動で、これまで当たり前とされていたカリキュラムやその内容、過ごし方は、大人である私たちの都合によるものになっていないか。これまでの文化を尊重するあまり、その目的を見失っていないか。まさに今、それを問うときなのだと思います。

最後に、レッジョ・エミリア・アプローチの創始者であるローリス・マラグッツィさんの詩を紹介します。

『でも、百はある。』

子どもには 
百とおりある。

子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方、愛し方
歌ったり、理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには
百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい 
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならないものだと。

つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。

最後までお読みいただきありがとうございます(*´-`) また覗きに来てください。