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映画「ジョーカー/JOKER」考察:ラストシーンが最大のオチ。80年代ではなく現代の狂った世の中をジョークにしている理由(ネタバレ)

映画「ジョーカー/JOKER」のトッド・フィリップス監督は、本作の真の意図については仄めかすような発言しかしていない。

しかし、最後のシーンについては、このように名言している。

あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です。この映画には、いくつかの笑い方が登場します。アーサーの苦しみから生まれる笑い、彼が大勢の一員になろうとするときの偽物の笑い――これが僕のお気に入りなんです――、そして最後にアーカム州立病院の部屋で見せるのが、唯一、彼の心からの笑いなんですよ。

この発言の意図するところを汲み取るのが、鑑賞者の責務であり、楽しみというものだろう。

ここからはネタバレを含む、個人的な考察になるので、鑑賞前の方はお気をつけください。

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映画の舞台は、1980年代のゴッサムシティ。物語上は架空の街だが、70-80年代のニューヨークの当時の世相を反映した舞台だ。貧富の差の拡大、蔓延する犯罪、セーフティネットの抹消、崩壊する行政システム。

そんな壊れた世界に産み落とされたのがアーサー・フレックであり、暴徒に囲まれたパトカーの上でダンスするジョーカーである。

しかしながら、急なラストシーンを見せられ「???」となった方も多いだろう。

狂気に満ちた社会を扇動するジョーカーが誕生したかと思いきや、次のカットでは病院の一室でカウンセリングを受けているアーサーが映し出される。

「あのあとすぐに捕まって、アーカム精神病院に収監されたのか?」

観客は一瞬そのように錯覚するのだが、これが本作のトリック(仕掛け)なのだ。

結論を先に言ってしまうと、映画の99%はアーサーの妄想の物語であり、最後の笑いはその妄想を思いついたアーサーの笑いなのだ。

もちろん、作中それを明言するようなシーンはない。しかし、観客に示唆するような描写が散りばめられてるので、いくつか紹介したい。

1.ラストシーン、アーサーの髪色が黒に戻っている

作中、アーサーとジョーカーを分かつ明確な「線引き」をするために、自分の髪の毛を「緑」に染めるシーンがある。あのシーンによって、ここまでが「アーサー」で、ここからが「ジョーカー」であると私たちに説明している。暴徒に崇められる悪のカリスマは「緑」の髪の毛なのである。

しかし、精神病院に収監された後、なんの説明もなく髪の色が「黒」になっているのだ。

医者から染め戻されたのか?それともあの事件から長い年月が経って自然に黒になったのか?いや、そんな不自然な話はない。

物語上、象徴的な「緑」の髪が「黒」に戻るということは「アーサー」に戻ったのと同じことを意味する。しかし、その後、ラストシーンでは結局「ジョーカー」として精神科医を殺害している。髪の色が「黒」に戻った「アーサー」なら、そんな簡単に人は殺さない。これは物語として大きな矛盾を生んでしまうことになる。

つまり、ラストシーンのアーサーと、物語の99%のアーサーは別物である可能性を示唆しているのだ。

2.アーサーが"見ているはずのない"光景を回想している

ラストシーン、アーサーは手錠をされた手でタバコを吸いながら、目の前の精神科医に笑っている理由を聞かれる。その時にひとつの回想シーンが挿入されるのだが、これがまた矛盾をはらんでいる。

その回想シーンは「幼少期のブルース・ウェインが、暴徒に射殺された両親を目の前にたたずんでいる」というものだが、この現場はアーサーが見ているはずのない光景なのだ。

作中、ジョーカーが引き金となったゴッサムシティの暴動の最中、ウェイン一家は運悪く暴徒に見つかってしまい両親は射殺される。このシーンはバットマン作品のファンとしては嬉しい演出なのだが、射殺したのはジョーカーではなく、見ず知らずの1人の暴徒なのである。

その犯人であるなら見たかもしれない光景を、ラストシーンのアーサーがはっきりとした映像で回想しているというのは理屈が通らない。彼はその現場にいなかったのだから。

つまり、ブルース・ウェインの両親射殺も、アーサーの妄想であることが示唆される


このようにラストシーンには、物語の前提を大きく覆すような二つの矛盾が仕込まれているのだ。

また作中に出てくる時計は「11:11」しか指していない、地下鉄でウェイン社の社員を射殺した際の発砲数が、銃の装填数よりも多いと言った仕掛けも指摘されており、本編のほぼ全てが「アーサーの妄想」とすれば合点がいくことがある。

少し横道に逸れるが「ダークナイト」のヒース・レジャー/ジョーカーも、自分の出自は明かさず、常に妄想まじりのジョークで、口が裂けた理由を語っている。あの作品の最大の恐怖は、ジョーカーの出自が最後まで分からないことであるのだが、実はそのルールを本作でも忠実に踏襲していることになる。

本作で「ジョーカー誕生の秘話」が明かされるはずが、結局は我々は「ジョーカーの妄想」で煙に巻かれたのだ。

ここまで読んでいただけると、先に紹介した監督の「あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です」というコメントの意味が分かるだろう。

あのシーンの「アーサー」だけが本物なのだ。

さて、そうなるとこの映画は単なる「妄想オチ」ということになるのだが、「ジョーク」を題材にした映画がそんな「最もつまらないオチ」をつける訳がない。

ここからは、もう一個踏み込んだ考察をしてみたい。

バットマンなんて存在しない

本作では、これまでのバットマン作品を踏襲したエピソードが多く盛り込まれている。ブルース・ウェインの幼少期を描きつつ、執事アルフレッドの登場や、両親が射殺されるシーンなど。これまでの作品のファンにとっては嬉しい監督の気遣いだ。

しかし、それすら「アーサーの妄想」だとしたら、どうだろうか。

DCコミックスの物語通りにいけば、社会が生み出した悪のカリスマであるジョーカーを、大人になったブルース・ウェインがバットマンとなり成敗するという流れになる。

しかし、本作のラストシーンが表すのは、バットマンすら「アーサーの妄想の産物」だということだ。トーマス・ウェインも、ブルース・ウェインもこの世には存在しない。凶暴な悪から、救い出してくれるヒーローはいないのだ。

トッド・フィリップス監督はこの点についても意味深な発言をしている。

私たちの頭の中では、このストーリーは1970年代後半から80年代初期の設定です。これには多くの理由がありますが、主な理由はDCユニバースから切り離すため…。今までの映画で観て来たジョーカーと、このジョーカーが共存することは避けたかったのです。そのため意図的に、すべてその話が起こる前に設定しました。
このジョーカーは独立したものです。そのため、大きなユニバースの一部としてつくったものではありません。この作品をつくった目的は、皆さんが長い間知っていて、また愛着を感じているキャラクターを研究し、しっかりした現実的なキャラクターをつくり出すことにありました。過去に素晴らしい俳優がジョーカーを演じていますし、素晴らしいコミックも書かれているため、チャレンジもあり怖い気持ちもありましたが、ホアキン(・フェニックス)と私にとって、自分たちの作品をつくることが大切でした。

つまり、監督とホアキン・フェニックスにとって、本作の「ジョーカー」はDCコミックスやバットマン作品の文脈とは無関係であり、現実におけるキャラクターなのだと言い切っている。

実はこれを裏付ける面白い仕掛けがもう一つある。近年人気沸騰中の悪のヒロイン「ハーレイ・クイン」は、「ジョーカー」抜きには語れない存在だ。彼女のDCコミックスでの設定は以下のようになっている。

ハーレイ・クインはジョーカーの共犯者で恋人。彼女はアーカム・アサイラムの精神科医として働いており、ジョーカーは患者だった。ジョーカーと恋に落ち、彼の脱走を助ける。

もし、本作がDCユニバースの一部の作品であるなら、ラストシーンにおける精神科医は「ハーレイ・クイン」だと匂わせる演出があって然りだろう。それこそファンは大喜びだ。

しかし、実際は黒人の精神科医であり、恋に落ちるどころか殺害されてしまう。

ハーレイ・クインのポジションであるべき精神科医を、わざわざこのような扱いにしているのも「この作品はDCユニバースと無関係だ」ということを観客に強調するためだろう。

つまり、この映画は「バットマンの系譜」であると鑑賞者が信じるほどに「すべて妄想の話だった」と理解することが難しくなる構造になっている。心から信じていたことが真っ赤なウソであり、騙されていたと理解することは人間にとって難しい行いだから。

この映画の「オチ」はなんなのか?

この映画は「オチ」こそがすべてである。

ロバート・デニーロ演じるマレー・フランクリンは、自身の番組に出演し、地下鉄での銃殺事件の犯人は自身であることを暴露するアーサーに対して「オチはなんだ?」と何度も詰め寄る。

「ジョークには常にオチがなければいけない」と再三確認するのがこの台詞の役割だ。無論、本作もこのルールからは漏れない。

ここまで「すべてはアーサーの妄想だった」「バットマンすら存在しない」という考察を述べてきた。十分に面白いドンデン返しではあるのだが、正直これだけでは本作の期待を超えるようなオチだとは思えない。何かもっと重大なオチがあるのではないかと感じた。

そこでふと気づいたことがある。

もしもすべてが「妄想の物語」であるなら、ラストシーンの男は誰なのだろう?

名前も「アーサー・フレック」だという確証はない。なぜならアーサーは「妄想の物語」の登場人物なのだから。

そしてラストシーンの年代はいつなのだろうか?私たちは80年代設定の映画だと信じていたが、その前提すら外されてしまう。

ラストシーンでは気味の悪い笑いをあげる男が「アーサー」であることも説明されないし、年代の説明もない。出所も身元も不明のままなのだ。

ここからはあまり確証が少なく私見が入るのだが、実はラストシーンの男は「現代」にいるのではないだろうか?

本作はマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」に強い影響を受けた作品ということはよく知られている。それらは1970-80年代のニューヨークの実際の世相を反映した代表的な映画だ。

トッド・フィリップス監督がこの二つの作品をそのまま焼き直すような同じ年代の脚本を書く訳がない。過去の世相と現代の世相を繋ぐ作品をつくると考える方が自然だ。

ラストシーンだけが「現代」の設定になっていると仮定すると「ジョーカー」はすでにこの世に生まれている、存在しているということを暗示することになる。

狂気はすでに私たちの社会に生まれており、今や遅しと社会の崩壊を待っているのだ。そして、我々を救ってくれるバットマンは存在しない。

ここまで気づいた時に、得体の知れない恐ろしさを含んだ映画なのだと思った。

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さて、映画の中から離れてこの世界を見渡すと、本作品で描かれていることは現実に起きている。

富める者はより富み、貧しき者はより貧しくなる世界。広がる貧富の差から社会は不安定になり、怒りや恐れといった市民の衝動によってボイコットや暴動、差別を助長し分断が加速するような運動が起きている。崩壊しつつある社会システムをケアすべき政治すら、資本家によってコントロールされている。

トッド・フィリップスとホアキン・フェニックスは、そんな現代への問題提起を映画に込めたのだろうか?

いや、それよりも「こんな狂った世界は、もう笑って生きるしかないよね」という超悲観的な楽観主義を我々に提案しているのかもしれない。

最後に劇中でも流れるJimmy Duranteの「Smile」の歌詞を貼ってこのブログを締めたいと思う。

Smile, though your heart is achin'
Smile even though it's breakin'
When there are clouds in the sky
You'll get by
If you smile through your fear and sorrow
Smile and maybe tomorrow
You'll see the sun come shinin' through
For you
Light up your face with gladness
Hide, every trace of sadness
Although a tear
May be ever so near

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NPO法人グリーンズのCOO/事業統括理事として健やかな事業と組織づくりに励んでます。都会のど真ん中に畑をつくる「URBAN FARMERS CLUB」もやってます。サステナビリティ、サーキュラーエコノミー、SDGs関連について投稿しています。一児の父。

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