見出し画像

香水(短編小説)

ねえねえ、会いたかった人に会える香水があるとしたらあなたどうする?
一人だけ、誰にでも会えるの。
アインシュタインでも、ヒトラーでも、別れた昔の彼女でも、今会社にいるあなたのお父様でも、ヘプバーンにでも。
あなたが望んだ人、一人にだけ会える香水があったら、あなた誰に会う?

好きだった彼女が、ベッドの中でそう言った。
彼女の体からはいつも花のような甘い香水の香りがした。
え?と言って振り返る僕を見つめるまだ少女のような瞳と、それに不釣り合いな赤い口紅が僕の心を落ち着かなくさせた。

彼女は気まぐれで僕と寝ただけで、僕に男としての魅力は感じていなかった。
ふらりと時々僕の家にやってきて、一週間ほど一緒に暮らし、またある日ふらりと出て行った。
その日の日曜も、ぼくがスーパーから家に帰ってくると、床やベッドの上に散らばっていた彼女の服はきれいになくなっており、赤いスーツケースもなくなっていた。
僕は特別驚かなかったが、なんだか花瓶に飾っていた花がしおれてしまったときのような気持ちになった。
しばらくソファに腰掛けて彼女の事を考えていたが、ふう、と息を吐いて僕は立ち上がった。もうあまり考えないようにしよう。

洗面所に向かい、さあ洗濯でもしようかと洗濯籠を持ち上げると、洗濯物の間に水玉模様のポーチが見えた。彼女の化粧ポーチだった。
中を見ると、かなり使い込まれて残り少なくなった化粧品が廃棄品のようにつめこまれていた。

小学校の時以来見ていなかったようなちびけた鉛筆のようなもの、表面がすりきれてメーカー名も読めないアイシャドー、小さいはさみ、彼女がよく付けていた口紅なんかが入っていた。そしてそういった使い込まれた化粧品の中に、きらりと光る小さな香水のガラス瓶が混ざっていた。どうやら香水を持ち歩くのに移し替えた物のようだった。


ふたを開けてみると、今までに嗅いだ事のない優しい香りが僕を包んだ。それは彼女がいつも付けていた甘ったるい香水ではなかった。
それは、僕がずっと前から知っているような、懐かしいような、でも決して記憶の片隅から呼び起こす事は出来ないと諦めさせるような、胸を締め付ける香りだった。
僕はその香水のふたをまたきっちり閉め、大事にポーチに戻し、棚の中に閉まった。また彼女が取りに戻ってくるかもしれない。

一時間後に、僕の携帯が鳴った。彼女からだった。
「ねえ、私メイクポーチを忘れていなかった?もし見つけたら、適当に処分しておいてくれる?どうせたいした物は入っていないから。」
「ああ、分かった。洗濯籠の中から出てきたよ。勝手に中をのぞいてしまって悪かったんだけど、あの小瓶に入った香水はどこのものかな?君がいつも付けていたのとはちがうみたいだけど、すごく良い香りがしたんだ。」
「気に入ったならプレゼントするわ。女物だけど。ねえ、私が前にした話覚えてる?その香水はね、一人だけ、誰でもあなたが願った人に会わせてくれるの。会いたい人を強く思って、宙に一吹きしてみて。きっと叶えてくれるわ。」
「おまじないや迷信ってあまり信じないタチだけど、気が向いたら試してみるよ。そういえば君が会いたい人には会えたのかい?」
返事がないと思ったら電話はもう切れていた。

会いたい人に会える香水か、すごく馬鹿馬鹿しくて、すごく魅力的だな。
一吹きして会いたい人を強く思う。僕は棚からポーチを取り出しかけてやめた。急にそうしている自分が恥ずかしくなったからだ。
彼女のことだ、どうせまた気が変わって取りにくるのだろう。

洗濯機が回り終わり、洗濯物を干しにベランダに出ると今日は気持ちのいい快晴だった。もうすぐ6月になる。太陽や植物や空気が、夏になる為の準備体操をしていた。初夏は一番好きな季節だ。世の中の楽しい事が、夏とともに近づいてくる、そんな予感がする。

ふと、父方の祖母の顔が頭をよぎった。そういえばもうすぐ祖母の誕生日だな。同時に6月は彼女の命日でもあった。
僕は人一倍おばあちゃん子だった。僕は祖母が仕事を引退した年に産まれた。そのタイミングもあり、祖母は孫の中で僕を一番かわいがった。 又、祖母は実家からすぐ近い所に住んでいたので、僕はしょっちゅう遊びにいったり預けられたりしていた。賑やかなのが好きな人で、毎週のように誰かを招いては料理をふるまった。自分は料理の名人だから、と笑いながら言う祖母を思い出して、僕は微笑みながら空を見上げた。

「ばあちゃん、元気か?」

空は何も答えず、鮮やかな水色に光った。
昔の優しい思い出が、映画のコマみたいに胸に込み上げた。走馬灯みたいだ。さっき彼女と話してから、頭のどこかでずっと考えていた。

『一人だけ誰にでも会えるとしたら、僕はばあちゃんに会いたい。』


洗濯物を干し終わって部屋に入ったところで、部屋のチャイムが鳴った。目が部屋の明るさに慣れなくてよく見えない。目を細めてインターホンの画面を覗くと、さっき出て行ったはずの彼女だった。
玄関のドアを開けると、にこにこしながら彼女が立っていた。
「やっぱりポーチ、取りにきたの。ろくな物は入っていないけど、ないと困るしね。」
「君の事だから、気が変わって取りにくるとおもっていたよ。」
そういって僕は水玉のポーチを手渡した。彼女は中身を確認するようにポーチの口を開け、中身をごそごそと引っ掻き回した。
「本当にたいした物は入ってないわね。」
そう言って笑いながら、例の香水の小瓶を取り出した。
「これ、試してみた?」
「いや、まだだよ。」
「そう、感想を聞こうと思ったのに。やっぱりこれ、気に入っているから返してもらうわね。」
そう言って彼女は、僕の頭上にその香水を一吹きした。
「ほら、会いたい人を思い浮かべて。」
いたずらっぽく微笑みながら彼女は出て行った。彼女の後ろ姿が、幻みたいにいつまでもまぶたに焼き付いた。

僕は目を閉じて祖母の事を考えた。記憶の中の優しかった祖母はキッチンに立っていて、振り向いたときの顔が、一瞬彼女と重なった。
なんだか今日はおかしな日だな。さっきの香水のせいか、頭がぼおっとする。
僕はリビングに行ってソファに横になり、テレビをつけた。いくらチャンネルをまわしても、見たい番組なんて一つもなかった。たまたまチャンネルをまわすのに疲れて手を止めたところが、通販番組だった。
「ゲルマの力が肩こり、腰痛に効く!」
額にホクロのある男性がテレビの中でそう言っていた。
額にホクロのある人は野心家です。そう昨日見た何かの雑誌に書いてあった。大きすぎる野心は身を滅ぼす。そんなことわざあったかな。とりとめのないことをぼんやりと考えているうちに、ぼくは寝てしまった。

何時間くらい眠っていただろう?僕は台所で誰かが料理をする音で目を覚ました。外は夕暮れで、西日が窓から差し込んでいた。きまぐれな彼女がまた戻ってきたのだと思った。彼女に合鍵を渡したままになっていたかな。思考回路に幕がかかったみたいに、まるで頭が働かない。
こめかみを押さえながら台所に行くと、キッチンに向かっているのはよく知った後ろ姿だった。彼女…ではなく、そこにいたのは祖母だった。

僕が呆然と立ち尽くしていると、祖母がこちらを振り向いた。
「おはよう孝志、久しぶりだね。よく眠れた?」
そう言ってにっこりする祖母の笑顔は、あのころと少しも変わっていなくて、僕は懐かしさで胸がいっぱいになった。
テーブルの上にはほうれん草のおひたしや、焼き魚、里芋の煮物、天ぷら、キュウリの浅漬けなどがたくさん並べられていて、鍋のなかにはみそ汁が入っていた。
「もうすぐごはん炊けるから、ほら座ってて。」
そういって祖母は僕を座らせた。
僕は訳が分からないまま聞いた。
「ばあちゃん、会いにきてくれたの?」
「そうだよ、孝志にどうしても会いたかったから。しかしあんたの家は遠いねえ。」
ばあちゃんはそう言った。
祖母は今、どこに住んでいるんだったか?僕は考えたが、考えれば考えるほど、分からなくなった。
それよりも、祖母に会えたことが嬉しかった。
「僕も、ばあちゃんにずっと会いたかったよ。一番、ばあちゃんに会いたかった。」
「ありがとう。今日は久しぶりだから、孝志がどうしていたか沢山話を聞かなくちゃねえ。」
ばあちゃんはにこにこしながら、炊きたてのご飯とキノコのお味噌汁を僕の前に置いた。そして僕の向かいの席に腰掛けて、言った。
「ねえ孝志、ばあちゃんがここに居る間、一つだけ約束してくれるかい?」
「何?いいよ。」
「今日は、孝志はばあちゃんに触れないんだ。ばあちゃんの作ったこの料理も、食べられないんだ。ばあちゃんの言ってる意味、わかるかい?」
そう言って祖母が一瞬だけ、寂しそうな目をした。

その時、最初に料理を見たときから感じていた違和感に僕は気付いた。
出来立てのばあちゃんの料理には、まるで匂いがなかった。魚の焼ける匂いも、炊きたてのご飯の匂いも、お味噌汁からも、何の香りもしなかった。
部屋全体を覆っていたのは、かすかな、優しくて懐かしい香りだった。
僕はしばらく黙ってから顔を上げ、祖母の瞳を見つめて少し微笑んだ。
「分かったよ、ばあちゃん。」
僕がそう言うと、祖母は安堵の表情を浮かべた。

それから僕と祖母は、沢山話をした。
といっても、ほとんど僕が自分の話を祖母に聞いてもらうだけだった。
僕が最後に祖母に会ってから、通っていた大学の教育学部を無事卒業した事。在学中、中学に教育実習に行った事や、運良く採用試験に受かって今は中学で英語の教師をしている事。 今年は一年生のひとクラスを担任していて、国際交流クラブの顧問もまかされている事。彼女がいなくて結婚はまだまだ先になりそうな事。両親は相変わらず仲が良くて、しょっちゅう二人で温泉に行っている事。小学校からの親友の達也に子供が産まれた事。

僕の話を、祖母はただ嬉しそうに頷きながらずっと聞いていた。
僕は時間も忘れて夢中で話し続け、気がついた頃には外は真っ暗になっていた。
僕が話し終わると、祖母はにこにこしながら言った。
「孝志が元気に、幸せに暮らしてくれていて良かった。ばあちゃんが居なくなって、泣き虫なお前がまた泣いているんじゃないかって心配してたんだよ。孝志は、いつも笑って居なさい。大好きなお前が幸せでいてくれたら、ばあちゃんはそれだけでいいんだから。昔からずっと、孝志は自慢の孫だよ。お前のおかげで、ばあちゃんの人生は最高に幸せだった。ありがとう、孝志。」

僕の目からは涙があふれていた。
「ばあちゃん、ありがとう。」
泣きながら、そう言うのがやっとの僕をみて祖母は笑った。
「やっぱり泣き虫だねえ。ほんとはもっと話していたいんだけど、そろそろ行かないと。」
壁の時計は21時を指していた。
祖母は微笑んだまま、静かに立ち上がった。

とても静かな時間だった。まるで僕の周りの世界だけが切り取られて、宇宙の真ん中を漂っているみたいだった。時計の針だけがカチカチと遠慮がちに時を刻んでいた。
僕も、ゆっくりと立ち上がった。並んでみると、目の前の祖母は記憶の中よりもずっと小さく感じた。
「ばあちゃん」
そういって僕は思わず祖母を抱きしめた。
祖母も僕の背中に細い腕をまわし、「またね」と小さく言った。
抱きしめているはずの祖母の感覚がだんだんと薄れていって、気がつくと僕の腕の中には誰もいなかった。
机の上の料理も鍋のなかのお味噌汁も消えていて、優しくて懐かしい香水の香りだけが残っていた。
僕は目をとじて大きく深呼吸した。
祖母との思い出をもう一度吸い込むみたいに、大きく息を吸った。

6月には、ばあちゃんの好きな黄色い花を持ってお墓参りに行こう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?