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『聲の形』自分や他者に本当に向き合えているかを問う漫画

『聲の形』(こえのかたち)は、大今良時による少年漫画。オリジナル版(2011年)は読み切りで、リメイク版(2013年)も読み切りとして描かれ、その後、連載(2013~14年)された作品らしい(アニメ映画化もされている)。連載の単行本全7巻を読んだ。

聴覚障害のある西宮硝子と、彼女が小学校に転校してきた際にいじめの中心となる石田将也が、高校生になって再会し、関係を変化させていく過程を描く。

いじめの主犯格だった少年が、ある日の出来事を境に自分がいじめの標的になり、それが小学校卒業後の中学まで続いて、高校でもずっと人と関わることを避けている。そして死ぬことを決意して、アルバイトでためたお金を自分のせいでかつて親が支払った額として親に返し、手話を習得してかつていじめた少女に謝りに行く。ということは現実ではあり得ないと思ってしまう。しかし、そうした希望を描けるのが漫画だ。

と思いきや、きれいごとには収まらず、硝子の闇なども描かれていく。

主人公2人のみならず、周囲の登場人物たちも「一元的」には描かれていない。表面的には善人、悪人に見えても、それがすべてではなく、裏には逆の面もある、というか、どこからどの部分を見るかによって、見える部分も変わってくる。

男性が好みそうな「おとなしくてミステリアスな女性」の比喩として聴覚障害を使っているのではないか?という疑問は、登場人物の「男の子ってああいうおとなしい女の子が好きだし」といったせりふで内部から提示される。

硝子が自分の思いを表現できずに、ああいう究極的な行動になってしまったのは、障害のある人への偏見に基づきステレオタイプなのではないかとも思う一方、実際の苦しみもそれに近いかそれ以上なのかもしれないとも想像させられる。

「純愛」なのは、「障害者と性的なもの」を描かないようにしたからなのか、あえて作者が意識してのことなのかはわからないが、気持ちや心情面でのつながりをテーマとして強調したかったからなのかもしれない。

時に手・腕が同時に数本描かれる手話の描写や、将也が「その他大勢」の人に関心を持っていないことを示す、クラスメイトなどの顔に描かれたバツ印などが印象的だ。そのバツ印がぺらりとはがれる瞬間があるなど、漫画ならではの表現だなあと思う。

1話だけ硝子の視点から描かれている回があり、そこではせりふがすべて縦半分消されている。だから、読もうと思えばなんとか判読できるが、そのためには努力と時間が要る。これは、補聴器を着けていても声・音を聞き取ることが非常に困難な硝子の状況を表しており、読者はそれをほんのわずかではあるが疑似体験することになる。もどかしさ、不安、不確かさ、自信のなさ。

硝子の気持ちは、小学校時代のクラスメイトの少女への手紙にも書かれているが、「本音」は最後まで明確に描かれているわけではないと思う。将也は硝子やほかの人々のこともちゃんと「見て」「聞いて」いなかったことを自覚するが、完全に誰かのことをわかることはできない。自分のことさえも。作中で描かれる硝子はほぼ将也が捉えた姿であり、作者は読者にだけ硝子の「本当の姿」をさらすということはしない。おそらくそれは作者にも完全に捉えられるものではないのかもしれない。

「いじめる側/いじめられる側」「かわいそうと思う側/かわいそうと思わられる側」は実は、完全に2分され固定されているものではない。立場は容易に入れ替わり、入れ替わらなくても見方によって違ってくる。人を傷つける者は同時に自身をむしばんでいるのではないだろうか。

周囲の人を無視する方が楽だ。自分が傷つかずに済む。人の気持ちを想像しない方が自由に振る舞える。でもたぶんいつか空しさが募る。人を一切信用できなくなる。でも誰も信じられずに生きていくことはとても難しい。だからなんとかして、完全にわかり合うことは無理と知っていながら、人は人に近づき関わろうとするのだろう。

将也は硝子に謝るときのために(筆談で済ませようとするのではなく)手話を身に付ける。硝子は将也に告白するとき、手話ではなく「声」(発話)で伝えようとする。どちらも、大切なことは相手の「言語」で話したいと思ったからだろう。それは外国語でコミュニケーションするときにも通じるところがあると思った。


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