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『心を病んだらいけないの?:うつ病社会の処方箋』斎藤 環、與那覇 潤

タイトルや表紙(私が読んだのはこのイラストの本ではなくもっと堅い感じの表紙のバージョンだったが)から、うつ病の人やそうなりつつある人に優しく語り掛ける本かと思うかもしれないが、実際は頭を駆使して読む必要のある硬派な内容になっている。苦しんでいる最中の人は読むのを避けた方がいいかもしれない。

精神科医と、歴史学者で重度のうつに悩まされた経験がある歴史学者との対談をまとめたもの。友達、家族、お金、夢、コミュ障、AI、セクハラ、過労、オープンダイアローグ、といった切り口から章立てされている。

うなずけるところもあるが、男性・学者といった「強者」の立場からの視点を感じるところもある。

「頑張ればなんだってできる。夢をあきらめるな!」という教育によって、適度にあきめられない人が増えている。一方で、あきらめ過ぎていて悲惨な境遇に甘んじてしまう人もいる。(pp. 110-111の内容)

一億総中二病化、みたいな現象ってあるかもなあと思う。フツーに勤務している人でさえ、いつまでたっても、「これは本当に私がやるべきことなのだろうか?」なんて思ってしまう(笑)。それをやる機会があって収入を得られているならそれで十分、と一方ではわかっているはずなのに。

エンパシー(感情移入)的な意味での共感は難しくても、「こんな場面では同情的に振る舞うこと」というルールを学んでシンパシー(同情)を演ずることはできると思うんですよ。そうした振る舞いを繰り返すうちに、シンパシーからエンパシーが「発達」してこないとは、誰にも言えないと思っています。(斎藤、p. 155)

多かれ少なかれ、社会的な文脈の中で、「こういうときはこう感じてこう表現すべき」みたいなすべを身に付けていくものなのではないか?外国に住めば、現地のマインドを学んでいくように。ただ、それをほぼ無意識に体得できる人と、かなり意識的にやっていかないとできない人、そもそもそうしなければならないと気付けない人、など、いろいろいる。「そうしなければならない」わけでもなくて、ただ、そうしないとおそらく生きるのに苦労する。自分ではどうにもできない場合もあるから、いろいろな人が楽にいられるように互いに協力できる社会にするのがいい。

自分の身体だけで話す場合は、当然ですが内容をすべて自分で組み立てて、しっかり理解・体得していることだけが言葉になっていきますよね。でもパワポという補助器具があると、「伝えやすいストーリーを作る人」「ビジュアルを重視してスライドに組む人」「声や容姿を活かしてプレゼンする人」が全部別の人でもいいわけです。(與那覇、p. 156より引用)

技術的には、自分が考えた内容を、デザイナーにきれいなビジュアルにしてもらって、美しい容姿と声のアバターにしゃべらせる、といったことも可能なわけで、もし日常のビジネスの現場でもそうするようになったらどうなるのかな(笑)。別に俳優やモデルや声優でなくても、なんの変哲もない仕事においてさえ、容姿や声は能力の一つ(人事評価に明記されてはいないけれど)に暗に含まれてしまっているが(それが人の印象に影響するなどの点で)、そのへんが崩れるのか?

あるとき就労支援施設のスタッフに「むしろ「若者は全員発達障害みたいなものだ」と思って対応したほうが、意外にうまくいくんです」と言われてはっとしました。日本の職場は無駄にハイコンテストで、「あれをなにして」みたいな文脈依存的な指示や、その現場でしか使用されない隠語・符丁が多いので、発達障害の人にはもちろん、若者全般にとって適応しづらい環境なんですね。(斎藤、pp. 157-158より引用)

表現の仕方はともかくとして、職場に外国人も含めて多様な背景を持つ人がいることを考えると、慣習などに依存した業務の進め方は改めた方がいい。若者でなくても理解できないし(笑)。

「これを入れておけば、先生がほめてくれそうな用語・要素」をレポートや卒論に盛り込んで卒業していくけど、教室や口頭試問で対話するとあきらかに本人が含意を理解できていない。ところがそれを「すごいだろう。うちのゼミの学生は××を読んでいるんだ!」とちやほやする教師がいるわけです。/本当はどういう意味かを問わずに、「とりあえずこう言っておけば評価される」ことを唱えるだけの人ほど出世していく状況は、いろんな職場で起きていると思いますよ。「中身はわからないけど、とにかくこのパワポでプレゼンすれば業績が上がる」といった働き方は典型です(前章)。(與那覇、pp. 164-165より引用)

特に問題なく進行しているけれど、なんだか表層的な感じで空しい、のはこれが原因なのかなあと思った。「こうしておけばいいんでしょ」という「空気」の蔓延。社会風潮がそれを求めてしまっている。「さらっとこなして成果を上げましょう」みたいな。でもそこに思考や判断が介在していないなら、その場しのぎでしかないかもしれない。こうしてゆっくり社会や人間は滅びていくのだろうか。

引用する気も起きないが、「第七章 不快にさせたらセクハラなの?」については、與那覇氏の発言に、「自分は絶対に被害に遭わないけど」という他人事な視点が出てしまっている気がする。まあ、被害者でも加害者でもない客観的な立場での、歴史的、社会的な視点に立った分析はもちろん必要ではあるが。

同じ章のpp. 194-195にある、仕事の場で容姿や服装についても言えない状況になってしまっているのはセクハラ対策の行き過ぎ、という意見については、人々はどう考えているのだろうか。私は、女性同士であっても、「髪の毛切ったの?」「今日の服かわいいね」「あの人きれいだよね」といった会話には居心地の悪さを感じるが、日常的に見聞きする。男性から女性に向かっては少ないかもしれないが、女性から男性に向かって「髪の毛切ったんだね」という発言はわりと聞く気がする。性別に関わりなくやめたら?と私は思うのだが。(仲の良い、友達に近い関係の同僚などは除く)

なかば本気で思うのですが、高橋(まつり)さんの事件の真の教訓は「電通は残業が多い」ではなく、彼女が卒業した「東大の文学部は役立たず」ということです。人文教育は何のためにあるのかと言ったら、コースアウトしても生きていくために決まっているじゃないですか。(與那覇、p. 228)

東大には、コースアウトタイプもいれば、ブランド目当ての人もいるんだろうな。後者の方が多そう?世間もまだまだ「東大卒」をありがたがるのでしょうから。

いちおう精神医学の見方では、じつは発達障害は(統合失調症と同様に)自己が外部に大きく開けていると考えます。(中略)自閉症の人はむしろ<意味>抜きで、ダイレクトに世界が自分の内側に飛び込んできてしまう。目にした数字が全部頭に残って、こびりついて離れないから暗記できちゃうといった事例ですね。(中略)病気を手掛かりに「自己と他者」のあり方を考えることは、深い意味でのダイバーシティを実現する上でも大切です。(中略)その人が周囲との関係性をどう感じているかはアイデンティティの一番の根幹で、かつ相互に摩擦が生じやすい部分ですから。(斎藤、p. 262)

周囲の物事や他者をどう捉えどう自分の中に取り込んでいるか、どういう表現方法を理解しやすいか、といったことは、障害や病気がある場合は「違い」が顕著だが、そうでない人も、それぞれ異なっている。その特性をある程度理解して、対応し合うことも必要か。でも、すべてに気付いてすべてにうまく対応することは誰にとっても難しいので、得意な人が得意なところをうまく行い、補い合えるといいのかもしれない。

対話においては「議論」や「説得」、あるいは「アドバイス」はタブーとされる。それは相手の存在の「統合性」を否定し、自分と同一の存在であることを強いる行為になりかねないからだ。これと同じ意味で、「正しいこと」や「客観的事実」をめぐる対話は、しばしばどちらかの、あるいは双方の「統合性」を傷つける。
(中略)対話の出発点は常に「主観」であるべきなのだ。(中略)たとえ相手の"主観的"な意見に同意できなくとも、私が"主観的"に同意していないことを穏やかに伝えつつ、「共感」可能なポイントを探ること。(中略)
対話においては、(中略)むしろ「違っていること」こそが歓迎される。(斎藤、あとがき、p.  277)

「正しさ」「事実」「論理」は、実は絶対的なものではない。組織や社会を動かしていく上でそれらを規定する必要はあることも多いが、あくまでもその中で通じることにした、ことにすぎない。それがいつでもどこでも誰にでも当てはまるべきと思い込むのは危険だ。秩序にばかりとらわれ過ぎると、人の心が崩壊しかねない。

能力とはそもそも「誰か」が保有できるものなのか。たんに結果が判明した後に、これはあの人が有能(無能)だったせいだ「ということにしょう」として責任の帰属先を決める、約束事があるにすぎないのではないか。(與那覇、読書案内、p. 290)

上記のこととはずれているかもしれないが、それぞれの人だけがすべてを動かしている、と考えるのは、「有能」「無能」という概念につながり、疲れる。ある程度そういうふうに判断しないと能力別に給与を決定したり責任者を決めたりできないわけだが、環境や人と人がどう組み合わさるのか、といったことによって、動きは違ってくるはず。偶然そうなった、致し方なかった、というふうにも時には考えないと、他者や自分を責めて、押しつぶされてしまうだろう。

視聴覚が「ない」ことを前提とした世界では、人びとは(われわれの考える意味での)言語を用いずもっぱら身体、すなわち触覚によってコミュニケーションをとることにある。はたしてそれは「不自由」な、成員の「能力が低い」がゆえのしかたない選択なのでしょうか。そうした評価は単に、私たちの社会の前提が彼らと異なるからにすぎず、真の意味で「障害者」であるのが、むしろ教義の(=視聴覚を通じて伝達する)言語に後続されている側だとしたらどうでしょうか。(與那覇、読書案内、ヴァーリィの小説『残像』について、p. 296)

どちらかが「障害者」であるわけではなく、思考法、感情表現法、伝達法に唯一性や絶対性や優劣性はないということなのだろう。音声言語でも、聞く・話すと読む・書くのどちらがやりやすいかは人によって違うし、組み合わせることで強化される人もいるし、ほかにもや手話、ヴィジュアル、触覚など・・・。音声言語をメインで使っていても、本当に言語だけで思考しようとすると行き詰まることもある。体を動かして、風景や空気を感じて、人の表情などを見て、何かが「わかる」こともある。

病気をする「前の状態に戻る」ことだけが、必ずしも療養や快復のあり方とはかぎりません。むろん、もし戻れたらその幸運を大切にされてほしいと願いますが、病気を通じて決定的になにかが変わってしまったとしても、以前より心ゆたかに生きていける形の新しい自己を見つける、そうした試みにおいてこそ、読書は真価を発揮するのではないかと思います。(與那覇、読書案内、p. 297)

病気は大きい出来事だから目立つが、それ以外の日々の挫折やもちろん良いことを通しても、少しずつ自分が変わっていく。変わっていくことで、生きていけるのだと思う。自己も「絶対」ではない。できるだけ楽しく心穏やかに過ごせるよう、変化し続けていけたらいい。


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