自己肯定のために

ずっと必要とされなかったり、
人形のようにたらいまわしにされたり、
存在の否定をされたり、
そもそも生まれてこなければ、と
言われてしまったり。

植えつけられた自己否定の気持ちは、
まるでそれが正しいかのように、
心の奥深くに根付きます。
自己否定は、自分を嫌ってしまうことはもちろん、
自分自身を殺してしまおうとさえします。

私がうつ病や摂食障害と診断されたとき、
「あなたはまるで、ゆるゆると自殺しているようだ」
と言われました。
その頃の私は、確かに自分自身を消してしまいたい、
と思っていました。
けれど、子供たちを守っていかなければならず、
死を選ぶことだけはしないように、
とにかく必死で生きることを選択し続けました。

私の自己否定は、生育歴からくるものでしょう。
どれくらい前から心が病んでいたのか
わからないくらいの鬱である、と言われ、
診察のたびに「生きていられたね」と
言われました。
自分自身では、そんなに緊迫した状態だとは
思えませんでしたが。

他人から見たらそれだけひどい精神状態の私は、
それでも子供たちのために生き抜くために
自分で自分をどうにか癒せないか、と
考えました。
私にできる、たったひとつの良い行い。
それは、自分の子供たちを慈しみ、愛することだけ。

まず私は、自分自身が母親になることに
罪悪感があったし、虐待を受けた子供は
虐待する親になる、と聞いていました。
私は、子供たちを育てることに
恐れを抱いていました。
そんな私がどうして、子供たちを慈しみ愛せたのか。
それは、
私がして欲しかったこと、言って欲しかったことを
そのまま我が子たちにしてあげたのです。
自分がして欲しかったことを
自分自身が与える。
そうしていくうちに、私の中の小さな私は
少しづつ、少しづつ癒されていきました。

だんだん子供たちが大きくなると、
私を慈しみ、愛情を
何倍にもして与えてくれました。
それは今もなお、姿かたちを変えて
与えられ続けています。
癒され、呼吸が楽にできる・・・この幸せ。

私は厄介者でも、邪魔者でもなく、
疫病神でもない。
少なくとも子供たちから求められ、
溢れんばかりの愛を与え合い、
生まれてきた意味も、生きていく理由も
ちゃんとある人間だったのです。

自己否定感は、自己肯定感に変わりました。
まだまだ低い自己肯定感ですが、
自分で自分を殺そうとは思わなくなった。
長い時間がかかりました。
でも、生きることは、生き続けることは、
悲しい、苦しい思いばかりではない、
うれしい、楽しい、と心から思える瞬間を
感じることができるものだと思っています。

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