述懐 大学受験での挫折

 私は大学受験で第一志望校に合格することも、合格のために浪人するという選択肢を取る勇気もなかった。私の大学生活は、不本意入学という敗北感から始まった。
 同じような記事をこの先書くことになると思うが、一つの述懐としてここに綴っていこうと思う。
 もし今読んでいる君が、受験で不本意な結果を迎えていて、指針を見失っているのならば、「君へ」の項は君のためにある。


志望校決定

 私は高校一年のときから、志望校を決定していた。東京外国語大学である。自分は漠然と国際系について勉強したいと考えていて、ならばその頂点にあるような国立大学を目指すことにした。比較的早い段階で決定し、この志望校を変えることはなく、国立二次試験まで進んだ。

日々の勉強

 私は高校受験で、努力が実ったことを機に、努力を成功の必要十分条件であると認識していた。そのため、通常に日程は、朝一時間早く登校し勉強。通学時間は単語練習。部活が終わればすぐに帰って勉強。高校一年の夏休みは午前中部活で午後は学校で勉強という習慣を作った。

あの時の自分にとっての勉強とは

 中学時代に部活動で挫折を味わった私にとって、勉強は唯一の武器であった。今考えれば強迫的に勉強を行っていた。上述のような勉強中心の生活習慣の人は他にいなかったので、関わる友人は少なくなった。中学の時の友達と価値観がズレるのは当然のことで、定期的に会うものの、精神的なつながりは希薄になり、当時の私はこのズレを認めることができず、理解してくれないことに苦しんだ。この理解者の少なさが、勉強によって他者に認めてもらうという感情を植え付けた、もしくは増幅させた。

センター試験から

 私はちょうど最後のセンター試験の年であり、来年の傾向がつかめず、経済的な理由も含め、浪人という選択肢はなかった。それもあり、センター試験で足切りを食らうわけにもいかず、死に物狂いの様相を呈した。そのかいもあり、足切りは回避。50%の確率で受かるというところまでこぎつけた。私はここで満足をしてしまった。センター英語で取れると思っていなかった189点を取った時点でもう満足してしまった。足切り回避が自分の中で大きな目標になり、それを一応は達成したのだ。そこからはもう惰性で滑り止めの大学を受け、二次試験も締まりなく受けた。

結果

 もちろん不合格である。不合格がわかったときは何も考えることができなかった。呆然。機械的に担任の先生や指導してくださった先生、友人に報告を済ませた。幸い、センター利用で受かった大学があったので、そこに行くことになる。しかし、母からは「浪人してもいいよ」といわれた。その一言は私にとって、あの強迫的な勉強をもう一年続けるという苦行を受け入れるのかという問いで、母は、私がこの結果を受け入れられざるものだと思っていると知った。加えて、志望校をもう一度目指すことができるという環境を捨てるかどうかを私自身で決めるという地獄に突き落とす。今思えば、この言葉が一番効いた。結果を認めてほしかった母に結果を認めてもらえなかったということを証明しているのだから

今の心境

 今、私は大学受験で不合格でも悪くないと思っている。もちろん、第一志望校に受かっていれば理想である。しかし、受かっていれば努力への信仰を深め、努力は成功の必要条件であるということに気付くタイミングを失っていたかもしれない。このことを気付かせたのは大学ではなく自分自身との対話であった。つまり、どの大学に行ってもきっかけさえ見失わなければ同じことが学べたのである。
 私にとってのきっかけは教員採用試験で、本格的に勉強を再度始めるということであった。本気を出さなくては越えられない壁を前にして、自信の劣等感や挫折感が邪魔をした。これを自分の中で整理するために自分自身との対話を深めた。
 私はたぶん、このようなきっかけを何度か見逃していたのだろう。しかし、きっかけに気付くことができる能力も、きっかけを活かすことができる能力のどちらか、もしくは両方が私には欠けていたのだろう。私の運命論に沿って話すと、そのきっかけは見逃すというシナリオだったといえる。
 また、今思えば、その大学を目指した理由も「国際系の頂点に立つ」というとても陳腐なもののように思える。しかし、このモチベーションがこじれにこじれて、ここまでの文章を構築するのだから何とも言えない。
 畢竟、結果論だが不合格でも悪くないと思う。しかし、結果を出すまで進み続けた自分がいることを私は高く評価する。自分にとっての失敗を自分の糧になったといえるまで、進み続けた自分を高く評価する。

君へ

 今の君は、敗北感に溢れていると思う。しかし、その感情こそ物事に対して、本気で取り組んできたという証左である。不合格という結果は他者からの評価に過ぎず、その評価と自分が下す評価が一致する必要があるわけではない。不合格であっても、挑戦の一歩を歩みだし、結果に至るまで進み続けた自分がいるという事実はどんな評価を受けても輝きを失うことはない。その輝きは合格という輝きに劣ることはないだろう。

2024/03/15


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