サントベール『デカルト的筋書』ノート

 本稿は、Emmanuel de Saint Aubert, "Le Scénario Cartésien - Recherches sur la Formation et la Cohérence de l’Intention Philosophique de Merleau-Ponty", Paris, Librairie Philosophique J. Vrin, 6, Place de la Sorbonne, V, 2005.の読書ノートである。メルロ=ポンティ研究の最先端の一翼を担うエマニュエル・ド・サントベールは、メルロ=ポンティの厖大な未公刊著作・草稿を基にメルロ=ポンティの思想を再構成する作業を行っている。そのプログラムの中編を担う本書は、未だ訳書も出ていないので、その内容を日本語で読解する本稿が誰かに資するところあれば幸いである。尚、例に漏れず誤訳や解読上の不備があることは大いに想定されるので、批判を待つところである。

※余裕があれば随時更新する。

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序文
Introduction

¶1:サントベールのプロジェクト…未公刊文書を基に、「侵蝕」という観点からメルロ=ポンティを発展史的に読む。本書は『諸存在の絆から諸存在の原基へ』――実存主義時代のメルロは、サルトル流の身体・欲望分析やサルトル流の想像力に対する批判を中核としていた――の続き。サルトルはデカルトよろしく身体を全く可能性を欠いた惰性的なものと考え、人間の否定性についてのデカルト的誤解の極点に到った。他方で、メルロは「この、肉によって創設された否定的にして肥沃的なもの」(VInote)という謎をデカルトと共有していた。

¶2:心身の合一という伝統的問題系から出発して(vid.シャルボニエによるインタビュー)、肉の概念によってメルロは絆の哲学を精緻化しようとしていた。サルトルとデカルトは身体が持つ二重性(受動-能動など)を、思惟する必要のない混乱として放擲した。他方、メルロはデカルトの第六省察――そこでは肉の混乱を三つの本質的様相の錯雑体として考察している――と対峙していたので、彼の「侵蝕」の様々な行路は、このデカルトの考察から照らし返される。

¶3:そのことを確認したら、次に本書は30年代のメルロの源泉、ブランシュヴィック、マルセル、シェーラーを追う。「私は私の身体である」はやがて肉の思想の道標となる。この問題系の認識論的側面において、「神秘」の観念はそこに、内と外との互いに投企的なものの体系的侵犯violationという色味をもたらす。またメルロは、志向性の重要性をシェーラー的な情緒的志向性から了解した。『知覚の現象学』はこの志向性の研究であり、「働きつつある志向性」はやがて「働きつつある身体(肉)における欲望の働き(侵蝕)」へと転じ、侵蝕の観念へ取って代わられる。それは愛についてのヴァレリー分析において交叉chiasmeに結実し、この〈欲望の交叉〉こそが絆lienの哲学の最後の顔となった。これはライプニッツの予定調和――メルロにとってそれは、デカルトと並ぶ、客体存在論のもう一つの峰であった――との対決の中で繕われたのである。

¶4:以上のような本書の研究手法が、メルロ=ポンティ自身が遂行した「メルロ=ポンティ流の解釈学」(p.20)と異なっているのは確かである。彼はデカルトを研究するにあたっても、デカルトが言ったことを復原することを目的としたのではなく、デカルトに対して現在の地点から自らの問いを投げかけ、デカルトが我々に対して言っていること、あるいは言い得たはずのことを述べ、我々が我々自身をよりよく了解できるようになること、客体存在論の根本的原理の元に自らの「新たなる存在論的出発」のための諸前提条件を見つけることを目的としていたのだ。〔以下、引用全訳〕


「デカルト的」というのは、ゲルーの意味で、即ち体系と諸真理の総体の内的検討という意味で哲学の歴史を成そうということを言おうとしているのではない。①そのような仕方では、一年あたり数時間〔メルロがデカルトに費やしたと自認している時間〕よりも多くの時間が必要であろう。②そのようなやり方は、デカルトが言ったことに立ち戻って、場合によっては逸脱しているようなdiscordantいくつもの直観をそこに見ること〔など〕諦めて、デカルトが言ったことを等質的な秩序という単一の地図へと還元して、ときにはデカルトにおいて最も取るに足らないものを過大評価しかねないことになろう。最も重要なものを見るためには、恐らく、デルボ〔ヴィクトール・デルボ?1909から1913まで、ソルボンヌ大学で哲学と心理学の教授を努めた。vid. Geroult, Descartes selon l’ordre des raison, 1953. vol.I, p.9〕がしようとしなかったこと、即ち諸々の小節について省察することをしなければならないのだ。③当の〔ゲルーの〕やり方では、〔デカルトを〕展望の内に置くことmise en perspectiveを諦めることになろう。即ちデカルトの内に、その体系の内に局限されることのないような、もしかすると西洋哲学〔全体〕の辛苦であるような一つの困難の〔一〕例を見ることをである。デカルトの最も固有なものも最も普遍的なものも同時に取り逃がすことになろう...。[...]それ故、秩序の内にデカルトの整理整頓を再構成するためではなく、彼の逸脱を含んだ一性leur unité discordanteを評価し、ともすれば新たなる存在論的出発を提示するための、議論の余地なくデカルト的ないくつかの主題についての自由なる反省なのだ。(「自然或いは沈黙の世界La Natur ou le Monde du Silence」(1957?))
¶5〔全訳〕:メルロ=ポンティは、このデカルトとの内在的議論によって、彼の半-亡霊的な対話者達の多くと議論するときと同じように、自らの知的道行を自らの諸疑問に適ったいくつかの哲学的形象によって標付けようとする欲求に応えているのである。――即ちそのような諸形象は、当の諸疑問を生み出す力を持っており、しかし直球的〔真ん中のもの〕en pleinであったり婉曲的〔窪みのもの〕en creuxであったりするような、人格的諸応答の主〔デカルトのこと?〕から採られたものであり、その主もまたそれらをこの同じ諸問題へともたらすような諸形象なのである。それ故、メルロ=ポンティの敵対者達はまたよりよき共謀者達でもある。そして彼のデカルトに対する関係は、我々が今から見ようとしているように、この両義性の手本なのである。

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