2-EX-4シェルイェビナー、改めミクレビナーに関する雑談
ミトラ=ゲ=テーア首都、プロティ・リーザ。とある日の昼下がり。
やや暖かい気温の中、雨がしとしとと降り注ぐ。
新キュプレサス通りの外れ。とあるブックカフェに、一人の機械種族ディータ。
ご存知、ルノフェンだ。
「ふんふんふーん」
元の世界の彼は、書籍にあまり馴染みがない。
だが、この世界で暮らすうちに、何かが変わったのだろう。
たまに書店にふらっと訪れては、白紙の日記とペンを買ってゆく姿が目撃されていた。
カラン、カランとドアベルが鳴り、新たな来訪者が姿を見せる。
若い樹妖族ドライアド。体格は華奢だが、その瞳には意志が垣間見える。
「あら」
その樹妖族ドライアドは、程なくしてルノフェンの存在に気づく。
彼女はこのカフェの常連だ。空いている時間を狙って、質の良いコーヒーを飲みにやってくる。
ルノフェンは、彼女の普段の定位置で、ペンを滑らせていた。
「マスター、コーヒー二つ。片方はあの人の分のおかわり」
「あい、あい」
店内に人はまばらだが、彼女はルノフェンが何を書いているのか気になったようだ。
「奢ってくれるの?」
目線を上げ、怪訝そうに伺う。
弱くではあるが、ルノフェンは気配を消す呪文を行使していた。
「うん。代わりにそれ、読んでもいい?」
今書いている日記の横の、少し古びた冊子を指差す。
恐らくは、過去のものだ。
「……好きにして」
目線を戻し、執筆を再開する。
「ありがと」
コーヒーがテーブルに運ばれる。
片方はブラック、もう片方にはほんの少しのミルク。
「ブラックで飲むんだ? 見た目の割にハードなのね」
「苦い方が馴染むからね」
既に殆ど空のマグカップを呷り、飲み干す。
体は少年のものだが、その振る舞いは、幾つかの困難を乗り越えた風格を醸し出している。
「ところで、キミは誰? ボクの気配遮断が通じないってことは、フツーの強さじゃないよね」
「んー……」
その質問は想定していなかったのか、樹妖族ドライアドは人差し指を頭に当て、吟味する。
「ま、いっか。そのうちバレるし。ヒュペラ・ザ=サイプレス。大統領の孫娘」
「そんなとこだろうと思った」
ルノフェンはため息をつく。
ヒュペラの内には、凄まじい魔力が渦巻いている。
純粋な魔力量では、聖都の騎士団長フィリウスといい勝負をしている。この例えで伝わるだろうか。
「あ、でも。ここに来たのは本当に偶然。単にコーヒーを飲みに来たら、いつもの席に貴方が居たってわけ」
「代わろうか?」
「いいよ。たまにはこういうのもいい」
ヒュペラは、じゃ、拝見――と宣言し、古い日記を読み始める。
砂漠に放り出されたことから、大森林の上空を魔法のカーペットで飛んだこと、聖都の防衛に参加したこと。
彼がこの世界に降り立ってからの軌跡が、余すことなく記されていた。
「……ん?」
読み進めるうちに、ヒュペラは一つの違和感に気づく。
「この“シェルイェビナー”って、誰?」
恐らく神を示すであろう名前に、見覚えがない。
「ミクレビナーのこと?」
「ああ、うん。文脈的にはミクレビナー様だね」
ルノフェンは、再び顔を上げる。
「ごめん、ちょっと日記返して。確認する」
「うん」
この時点で、ヒュペラは一つの可能性に思い当たっていた。
「おかしいな。辞書通りなら、この単語は“ミクレ”って読むはずなんだけど――」
《ポケット・ディメンジョン》を用い、普段遣いの辞書を取り出す。
その辞書には、確かにかの神の権能である、鉱山を意味する項目があった。
悪名高い出版社の名が、背表紙に見えていた。
「ルノフェン、実はさ……」
ヒュペラは、言いづらそうに続ける。
端的に言って、その辞書には誤植があったのだ。
共通語において、“鉱山”と“私のもの”は、同じスペルを用いる。
だが、古代語においては、それらは全く分かたれていたのだ。
そして辞書の編集者はその事実を見落とし、翻訳の際に取り違えたという顛末であった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ー! マジかよ!」
ルノフェンの絶叫が響き渡る。
「事情は汲み取りますが、お静かに……」
マスターから注意を受け、ルノフェンは声を抑えた。
「もうオドに読ませちゃったよ、恥ずかしいなぁ!」
二杯目のコーヒーを、一気に呷る。
苦みが、頭をクリアにさせてゆく。
「なんというか、無粋なことしちゃってごめんね?」
「ヒュペラは悪くないけどさぁ……」
ルノフェンは席を立ち、ヒュペラを連れ、カフェの辞書コーナーに向かう。
「……ちなみに、ヒュペラは普段どの辞書を使ってるの?」
「私は国立文化院のを使ってるかな。でもそれに限らず、文部省から承認を受けている辞書なら民間のでも大体は正確だと思う」
と言い、手頃な大きさの辞書を棚から取り出す。
「そっかぁ……」
辞書を受け取り、即購入。
最初のコーヒー代も合わせると、三十八シェルを支払った。
「どんまい」
「こーゆーことってあるんだなぁ……」
ヒュペラがルノフェンの背中を叩くと、彼は席に戻って荷物を片付けはじめた。
「執筆はもういいの?」
彼女の問いかけに、ルノフェンは指を立て、振る。
「雨も上がったしね。それに、どっちかというと体を動かすほうが本分だし」
「見るからに元気そうだもんね」
「言葉にトゲを感じる」
ヒュペラは、もう一杯コーヒーを注文した。暫く居座るようだ。
「じゃ、行くよ。コーヒーありがとう。元気でね」
「そっちこそ」
二人は別れの挨拶を済ませる。
ヒュペラが訪れたときと同じ、カラン、カランというドアベルの音とともに、騒動の主は店を去る。
「また会えたらいいね。神子さん」
その背中に、ヒュペラは優しげな声を投げかけた。
【終】
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