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【雑記】医術にあって医学にないもの

いわゆる古代~近代の『代替医療』と現代の『正統医学アロパシー』の話。

元々治療成績が悪く『対症療法アロパシー』と蔑まれていた『西洋医学』が、他分野に遅れて19世紀後半頃より自然科学を取り入れたことで圧倒的な大衆支持の獲得と目覚しい発展を遂げるに至り、当時最大の対抗馬だったホメオパシーを代表とする代替医療を尽く駆逐してしまった。

その過程反動で、西洋医学はかつて『医術』に属していた頃の根本的な視点を切り捨てざるを得なかった。言うならば、その頃から医療者にとってホントは大事だけど声を大きくしては言いづらい窮屈な領域が出来てしまった。

元来、世界各地で自然発生的に発展した『人を癒す術』にはすべからく祭式や占星術、呪術、巫術シャーマニズムなどが少なからず起源として関係しており、信仰や畏れなどの形で共通して『神秘に対する肯定』があった。現代風に言えば『医術師』は実在主義者ロマンチストの集まり。

対する『医学者』は『EBM根拠に基づいた医療』を重視する実証主義者リアリストの集団。これは先の『西洋医学』が飛躍した時期と要因時代のニーズが関係しており、基本的に人体をニュートン物理学的に翻訳して捉える『人間機械論』と要素還元的な『分子生物学』が土台ベースとなっているためだ。

根っこの立ち位置コンセプトを決定的に鞍替えしたことで、医学は必然的に『矛盾』や『全体性(全体は部分の集合以上の意味があるという概念)』に対する許容量が小さくなった。統計的な研究場面だけでなく『複雑系』である『臨床』においても『感情』という最大の変数乱数をあまり重視できなくなった。プラシーボ思い込み効果がネガティブに受け取られるのがその象徴だと思う。

多くの『医術』には、『哲学性』『芸術性』『科学性』という大きな三本柱が存在する。

哲学性は平たく言えば当人の『世界観』で、その土台には更に『自己究明(自分探し)』『生死解決(どんな風に生きて死にたいか)』『他者貢献』などの階層があった。

現代ではわかりにくいが、医術は最も高次な他者貢献の領域であったため、昔は倫理観や道徳よりもそれらを包括した哲学が重視されたのだ。

芸術性は現代美術やビジネスでも重視されている『アート思考』で、自分の世界観(身体観や美学)からどういった観点を抜き出して強調するかというセンスが施術において重んじられた。

最後に科学性は現代とも一部通じる『統計』の話で、長年蓄積された経験則は個人や団体を問わず臨床の指針となった。

『医学』は科学的な検証を進めていくのに辺り、両立が難しく不要な哲学性と芸術性を捨て去った。これは個人の資質を問わず、知識と一定の経験さえあれば多くの人間に再現可能な学問体系を確立したという点で優れた判断であったと思う。

そういった流れがあるため、医学界において職人寄りで属人化した技術を持つゴッドハンドよりも、簡単で一般に普及した手術を作った医者の方が高く評価されるということも深く頷ける。

一方で、あまりにも各分野を細分化し過ぎた結果、専攻した領域外のことが極端にわからない、あるいは他分野と統合した見解を持たない(人脈も持っていない)といった事態が生じやすくなったようにも思う。

良くも悪くも、現代は物事の一面を科学的ロジカルに『切り取って』考えることが推奨されており、インターネットの発達もあって確証バイアスと優越の錯覚を際限なく高められる仕組みになっている。

自分から敢えて、『自己の安定を崩してしまう』ような『矛盾した情報』を入れて『見解を再構成(統合)』するような『時間が余った奇特な人』はそんなにいない。

特に『医学』においては、前時代的で非科学的な『医術』の類はほぼプラシーボ効果の一言で終わらせることができてしまう。実証できないものに価値はないからだ。

『科学でこの世の全てが矛盾なく証明できて解るわけではない』

現代人なら何処かで見聞きしたことがあったり、感じている共通の閉塞感で、実際に自然界の法則を数式で明らかにする『数学』や『物理学』なんかの世界も最先端まで行けば『矛盾』と『オカルト』のオンパレードだ。

言うまでもなく、『正統医療』は人体の全てを網羅して介入できているわけではない。でも当然それは『代替医療』においても同じこと。それぞれが異なる焦点で特有の身体観を持っているだけだ。

だからこそ治療者同士はもちろんのこと、もっと幅広く一般の方にそれぞれの長所や短所を伝えられるようなフラットな場所があったら良いのにな~、なんてふと考えてしまった今日この頃。

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