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「誇り」という松明をかかげ

先日、高校生の対話の場に参加したさい、価値観の違う人同士がどうしたら一緒にいられるのかについて、彼ら彼女らの真剣な語り合いを目の当たりにしました。

他者とともに生きるときに不可避な、居心地の悪さや衝突、そして分かり合えなさを、居心地の良さや支え合い、そして理解共感へと反転するにはどうすればよいか。

そこで若い人たちが、今問わねばならぬという切迫感とともに問うていたものは、顔ぶれのまったく異なる大人たちの間でもしばしば中心的な問いとなるものです。他ならぬわたし自身のうちでも。
ただ私は過去と今とで、随分とその問いとの付き合い方が変わりました。体裁を気にせず、逃げることと待つことを覚えてからです。

初っ端から「友達100人できるかな」というよく考えれば土台無理なヴィジョン(?)を掲げて、子どもたちを既定のレールに導いていく私たちの教育システムは、いますぐ臆せず立ち向かうことの徳をさまざまな形で喧伝してやみません。
そのなかで、逃げることの卑怯さと待つことの怠惰さを刷り込まれて、私たちは大きくなります。

しかし、逃げられるということは、自分がより安心を感じられる場所を分かっているということです。待てるということは、待った先に何かしらポジティブな展望を予期できるということです。

何よりいずれも、自分自身のうちに身を挺してでも守るべき絶対的な価値を見いだせていなければ、場所的にも時間的にも、ここではないどこかに向けて自分を差し出すという「冒険」ができるでしょうか。

逃げることも、待つことも、「誇り」という松明が照らし出す、掛け値なしに勇敢な行動であるはずです。身のうちに誇りを持たずに私たちは「卑怯」にも「怠惰」にもなれはしないのです。

そもそも天気ひとつ取っても明らかなように、私たちの周りには自らにはどうしようもならないもので溢れています。

そうしたとき私たちは、誰もが知った諺のごとく、地平に向かって荒れ狂う海原を前に、いつか路が開かれるときを信じて、無力な己の手を今はただ拱いていられるかどうか。

大人たちが翻弄され、何度もはじき返されている世の諸問題に、子どもたちはすでに出会い、斜に構えることなど知らず、まっすぐそれに立ち向かって生きています。

その懸命さはときに「逃げ」や「待ち」であってもいいのだと、子どもたちに伝えることができるかどうか。それは偏に、子どもたちを取り巻く環境の成否にかかっていると、改めて思います。

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