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カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#39 デニー友利編

デニー友利(ともり)/友利結、デニー

投手 右投げ・右打ち 1967年9月21日生まれ
ライオンズ在籍:1997~2002年
通算成績:399試合 18勝29敗 30セーブ 10ホールド 防御率3.89
背番号:36(97~02年)
当日所属:TEAM LIONS

沖縄の興南高から1986年ドラフト1位で大洋ホエールズに入団。沖縄出身選手の1位指名は、83年にロッテオリオンズから指名された比嘉良智(沖縄水産高)以来、2人目だった。

その将来性を期待され、高卒1年目から1軍で3試合に登板。2年目には野球留学でアメリカに派遣される。だが、なかなか結果は出ず、入団4年目の7月には、右太ももの故障もあり任意引退。イースタンの試合にも出場できない「練習生」扱いになったこともあった。

93年にサイドスロー転向。登録名を「友利結」から「デニー友利」に変更した95年、シーズン終了間際の10月6日にプロ9年目での初勝利、翌7日にはプロ初セーブをあげるのだが、状況は大きく変わらない。10年目のシーズンを終えた96年オフ、一から出直して最後のチャンスに賭けようと、クビを覚悟でフロントに移籍を懇願する。

すると年明け1月に、ライオンズの90年ドラフト1位投手長見賢司との交換トレードが成立する。背景には、イースタンでのデニーの投球を観た東尾修監督が、その眠れる素質を高く評価していたことがあった。

心機一転。今度は登録名を「デニー」と変えて、東尾監督の「細かいことは考えず、真ん中めがけてどんどん投げろ。お前の投げ方なら自然とボールは散らばって、ストライクゾーンの近辺には行く」とのアドバイスを胸に、いまなら「チームロン毛」入会間違いなしの長髪を振り乱しながら、右腕を振った。

190㎝を超える長身のサイドスローが投げて来る150㎞/h近い荒れ球に、パ・リーグの打者たちの腰は思わず引けた。セ・リーグ時代の10年間で2勝しかしていなかった投手が、このシーズンだけで4勝5ホールド(旧ホールド)。右の中継ぎに定着して、リーグ優勝に大きく貢献する。

オフの契約更改の席上、球団のフロントから「1年間よく頑張ってくれたね」と言葉を掛けられ、「そんなことを言われたのは初めてだ」と、感激していた。

翌98年には、不調の森慎二に代わってストッパーも務めるなど、その投球はさらに冴え渡る。7月には8試合に登板して1勝4セーブ、防御率0.00で月間MVPを初受賞するなど、チームで2番目に多い52試合に登板して7勝8セーブ。日本ハムファイターズとの最大10ゲーム差をひっくり返した大逆転優勝の、大きな原動力となった。

この年の日本シリーズでは、横浜ベイスターズと対戦。2試合で1 1/3イニングだけの登板だったが、旧友たちの前で、生まれ変わった姿を披露した。

親分肌の明るい性格で人望が厚く、食事会を開いて若手投手の相談に乗ったり、新人の松坂大輔の教育係となって、チームの輪に溶け込ませたり。投手陣のまとめ役となり、結束力を高めていた。02年には移籍加入の選手ながら、選手会長も務めている。

また自身もシングルマザーの家庭で育った経験を持つことから、西武ドームの年間シートを購入して、母子家庭のファンを招待する「デニーシート」を設けるなど、社会貢献活動にも熱心だった。

移籍6年目の02年シーズンは、8回が森、9回は豊田清の勝ちパターンが定着、同じサイドハンドの青木勇人の台頭もあって、登板数が3試合に激減。「自分ではまだやれると思っている」と、再び移籍を志願する。新たに就任した山下大輔監督の誘いもあり「横浜に恩返しがしたい」と、前田和之との交換トレードでベイスターズに復帰する。

05年には渡米して、レッドソックス傘下の3A「ポータケット」、2A「ポートランド」で1年間プレー。帰国後は中日ドラゴンズに入団。06年には8ホールドをあげて、リーグ優勝の一翼を担った。

40歳になった07年シーズンを最後に、日米通算21年間の現役生活を終えたあとは、松坂の在籍するレッドソックスの巡回コーチや、ベイスターズ、ドラゴンズのコーチを務め、現在は読売ジャイアンツの編成本部長補佐国際スカウトに就いている。

デニー 年度別成績(NPBのみ)

主なタイトルなど
 オールスター出場(98年)

「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」
3月16日(土)12:00開場/14:00試合開始
会場:ベルーナドーム
配信:パーソル パ・リーグTV
放送:BS朝日(翌日録画放送)

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