終戦の日 〜若き祖父に出会う〜
終戦の日だ。
私は祖父を戦争で亡くしている。
……という言い方をするとなんかおかしい。
写真に残る「おじいちゃん」は、26歳の若者だからだ。
祖父は母が生まれる前に出征し、そのまま二度と帰ることはなかった。
だから母は父親の顔を知らない。
祖父が妻からのハガキで娘が無事に生まれて元気でいることを知ることができたのは、わずかな救いである。
事情があって、その後、母は曾祖母に育てられた。
田舎の旧家の戦死した長男の忘れ形見として、それはそれはかわいがられ、叔父叔母らにも大切にされたと聞く。
もともと父親を知らないせいもあるのか、そばにいた大人たちの尽力のためか、母は父親の不在を特に悲しんだりすることはなく、わりとあっけらかんとして、かえって祖父をよく知る人たちの涙を誘ったということだ。
亡くなった人、特に若くして戦地で命を落とした人を悪くいうものはおらず、伝え聞く祖父は、剣道の達人で正義感が強く、またユーモアもあり、地元の人気者、という好青年……ということになっている。
そんなわけで、私にとっても「おじいちゃん」は、お話の中に出てくる身近な人というイメージだった。
しかし、ある時、私は若い等身大の祖父に出会うことになる。
弟夫婦に娘が生まれた時のことだ。
誕生を知らせるメールに添付されていた写真の中に「はじめての家族写真」があった。
笑顔の弟と奥さんが姪を囲んで写っている。
それをみた時に、突然涙があふれて自分でも驚いた。
「祖父にもこういう時間があったかもしれない」
衝撃だった。
娘をその手に抱くこともできず、遠い戦地で命が消えかかるとき、祖父はなにを思ったのだろう。
「戦争」という大きな括りから、「そこにあったひとつひとつの命とその物語」に光の速さでズームしていくような感覚に襲われた。
それぞれを読み解くことはできないが、「そこにあった」という質量は感じることができる。裏を返せば、今まで意識することのなかったぽっかりと空いた場所の存在を感じるということだ。
息子は今年、写真の祖父の歳になる。