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世界が退屈で仕方ない女の子たちへ #2.2

 エリは夕食を作る。デパートで買ってきた、まだ泥がついたままのじゃがいもを包丁で器用に剥いて。だが、脇にある沸騰した鍋の蒸気によってやや水気を張りつかせたその顔はぐにゃりと歪んでいる、身体を冷ますわ、と酒の瓶を持ってデッキ・チェアに座りにいった、あの痛々しい女の背中を窓ガラスごしに時々憎悪を持って見やりながら。換気扇についた淡いランプの灯りで、汗ばんだエリの首筋は悲しく光っている。

 エリはこの別荘、いや、あばら家を知っていた。

 彼女は、ここに、確実に来たことがあった。それは、冬子さんに連れられて。彼女が主催する、虐待児ボランティアのプログラムで。

 もう考えるのはやめだ。

 エリは、この家の前についた時から頭にこびりついて離れない一つの確実な必然を今だけ、今だけはかなぐり捨てることにした。かなぐり捨てられなかったからこそ、先ほどあの女の首を絞めざるを得なかったのだが。

 ポトフの具を鍋に放り込んで、夜の闇の籠ったカーテンを払いのけ、窓をこじ開ける。と、きつい潮風が皮膚を刺した。断崖絶壁に面した濃い緑の丘に乱雑に置かれているデッキ・チェアでは、崩壊するまで飲み潰れたマリエが苦しそうに睫毛を時々動かして果てていた。長い手足……エリは開け放された窓から僅かに漏れる部屋の灯りを手がかりにして、その輪郭を冷たい手で優しく撫でた。すると、そのアル中の女は泥沼のような眠りのなかにあっても、僅かに歯を見せて笑みを見せた。それを見て、そうだ……とエリは目の縁を濡らしながら考える。ずっとわたしは、「誰かのもの」になりたかっただけなんだ。百パーセントの濃度で。たとえ、それが、誰であっても。

 エリはごうごうと唸る風の向こう側から、漁師たちが酒を飲んで騒ぐ声が響いてくるのを聞いた。それによってもたらされた甘いエキゾティシズムの中で、エリは思考する……今、あの母親も、不動産会社も、冬子さんも、その旦那もいない。だけど、一番自分のしがらみに満ちたこのあばら屋に連れてこられたのはどういうわけだろう。この場所から、わたしとマリエの全ての連鎖が始まったのだ。それでもその思い出は、こんな、嘘に塗れたわたしにでも覆していくことができるんだろうか? おそらく、ここでの時間はそんなに残されていないだろう。じきに、追っ手がくる。終わりがくる。

 わたしは生まれ直すことができるんだろうか。

 明日も漁師たちが騒いでいたら。ここでのマリエとの日々を少しでも快適にするために、新鮮な魚を安く売ってもらえるように頼みにいこう。どのみち、わたしを苦しめ、救う存在はこの女しかいないのだから。

「マリエ、パンを焼くのをお願いしてもいい? ガーリク・トーストにするのよ」わたしは肉を焼くから。本当はこの風にあまりあたってほしくないのだった。全てが一瞬にして露になってしまうようで。

 マリエは苦しそうに重い瞼を半分だけ開けてエリを見た。そして、

「あと三分だけ、眠ってもいい?」と相手を駄目にする美しい微笑を浮かべた。

 いいわ、とエリは言う。その代わり、また起こしにくるわよ。マリエは大げさに首を降ってみせながら、また擦れるような寝息を立てた。エリの人生で一番大事な冬子さんを殺したのは、マリエだ。そして、その父親と長い間寝ていたのは、わたしなのだ。あのトイレで……あのみずぼらしい、しみったれたトイレで……必然は、腹違いの姉妹を奇妙な引力で引き合わせたのだ。



©Makino Kuzuha

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