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違うことが当たり前の環境

4月から5月にかけて、1か月間タイに滞在していました。
突然ですが日本語に「たい」って音多いと思いません?
「タイで暮らしたい」「タイに行くから退職」「タイに滞在」
毎回「ダジャレじゃないで!?」って言うのタイヘンで🥺
…失礼しました。

日本に帰ってきてから3日目で、すでに息苦しさを感じました。社会の圧とか、言葉の隅々まで聞き取られて理解されてしまう窮屈さとか、プーケットよりはるかに涼しいのになんか息がしづらい感じ。

社会の圧っていうのは、「26歳がショートパンツ履いて電車は乗らんほうがいいかー」とか「26歳でまだ実家でぬくぬく暮らしてる私、周りのみんなは育ってきた場所と別に帰る場所を作ってるのになー」とか、本当にささいなことなのですが、プーケットにいた1ヶ月間は感じなかった控えめなモヤモヤが心につかえました。

自分が明らかに地元民じゃない顔や肌の色だと、逆に周りの目を気にせず飄々と歩けたりしませんか?
何を着てても、私の顔や肌に合う格好はこれだからいいんだ〜って思えるのかな。誰もそんなところまでみていないと言われればそれまでだし、それも事実だと思いますが、私はそう思えるだけで気が楽なんです。

装いに加えて言語に関しても感じることがありました。行ったことのある方はご存知だと思いますが、タイに住む人たちは英語がそれほど堪能ではありません。私もふだん英語の読み書きは欠かさずしていますが、話す/聞くとなるとよく言葉に詰まるし、思ったことをすぐ言葉にできないことがよくあります。
私はタイ語がわからないのでタイの人たちとはお互い拙い英語で話していました。タイの人たちはいつでも親切で、困っていると必ず助けてくれるし、私が(発音ミスった!)と思っても嫌な顔せずむしろ笑顔で聞き返してくれるし、私が聞き取れなくても何度も伝えようとしてくれます。

ビーチに看板を立てようとしていたおじさんにバス乗り場を聞いたことがありました。おじさんは何度も「クリーン。クリーン。」って言うのですが、バスのことを聞いているのにcleanってなんだ…?と思っていたら、自分のTシャツを指して「クリーン!」と言ったので「Ah (you mean) the color? Blue? The blue bus?」「Oh yes blue!」というような流れで最終的に会話が成り立ちました。
この体感3分間くらいのあいだ、明らかに「外」からきた人間に、伝えようという心意気を失わずいてくれるのはとてもありがたいことだと感じました。

お友だちになってくれた女の子との会話でも、なんていうか、双方のでこぼこな言葉の流れの中に「意思を伝え合いたい」という本流が感じ取れました。
この本流こそがコミュニケーションの真髄なんでしょうか。コミュニケーションの、一番あまくておいしい部分。

日本人と日本語で話している時は、がんばらなくても伝わるし、ふと、つるっと口から滑り出た言葉までも全部伝わってしまいます。期待されている返答ができなかったとき、相手の小さな反応でそれがわかってしまいます。仕事柄引きこもって画面に向かう日々を過ごしていて、年々コミュ障とネガティブをこじらせていっている私は、一瞬の相手の顔の曇りなどにチク、チク、と自分の不甲斐なさを感じます。

タイでの1ヶ月を経て、違うこと、わからないことが当たり前な環境の方が居心地がいいなって感じました。
隅々まで知っている土地、隅々までわかってしまう言葉、行き届いている環境は、一見ありがたいようで、私にとっては少し居心地が悪いようです。
贅沢で、どうしようもない人間です。

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