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随筆系日記Vol.04「アポトーシスとホトトギス」

アポトーシスとは、

生物を構成する細胞が、自分の役目を終えたり不要になったりするとみずから死ぬ現象。 (日本国語大辞典)

もちろん私はOfficial髭男dismの『アポトーシス』でこの言葉を知った。細胞が死ぬという現象に名前がついているということを初めて知り、そしてこの曲の新しさにも驚嘆した。

歌詞のはじめは以下の通り

訪れるべき時が来た
もしその時は悲しまないでダーリン
こんな話をそろそろしなくちゃならないほど素敵になったね
(作詞:藤原聡)

かなり詩的である。「訪れるべき時」とは「悲しまないで」といっているのだから、きっともう、死だろうと感じる。しかし、「こんな話をそろそろしなくちゃならないほど素敵になったね」と相手に語りかけるところからは、死を肯定的にそして、成長の一部としてみていることが分かる。

次に続く歌詞

恐るるに足る将来に
あんまりひどく怯えないでダーリン
そう言った私の方こそ
怖くてたまらないけど
(作詞:藤原聡)


詩的な言葉にサラッと口語を挟むのは、上手い!としかいえない。
Official髭男dismの魅力を私が改めて言うまでもないが、とにかくこの曲には驚いた。
 死をテーマとした曲は数多い。しかし、この『アポトーシス』は死というものは誰にでも訪れるべきものであり、その最後に向かって必死に生きようとする自分たちに対するエールソングであり、そして究極のラブソングであるのだ。いままで、ここまで死に対して肯定的な歌はあっただろうか。
 核家族化が進み、子どもたちは死というものに触れる機会が減ってしまったということを聞いたことがある。確かに、おじいちゃんおばあちゃんと暮らしていた時代には、おじいちゃんやおばあちゃんの死に立ち会う機会があっただろう。さらに、テレビやアニメなどでは規制が強まり、所謂残酷という描写を子どもたちが目にしたり、聞いたりすることは減ってしまっている。その是非を問うわけではないが、確実に私たちは日常において死というものをあまり意識しなくなってきている。

 だが、コロナウイルス蔓延という染病が私たちの日常を大きく変えた。日常の中に突然死の恐怖が巨大化してあらわれたのだ。完全に我々は平和ボケをしていたと実感した。76年前に戦争があった、そして数々の災害が日本では起こってきたのに、それでも私たちは死について深く考えることから逃げてきたのだった。もちろん、学校の授業では戦争の恐ろしさ、災害で被災された人々の現状を学ぶ。しかし、それはどこか他人事に思えてしまっていた。

 『アポトーシス』は究極のラブソングであり、そして鎮魂歌(レクイエム)でもある。死と真剣に向き合い、私たちの生きる意味と生きる価値を再確認するための歌。それは同時に死ぬ意味と死ぬ価値を知ることにもなるだろう。

 死と向き合い、それを昇華してきた作家といえば私は正岡子規を思い出す。子規は20代で喀血し、結核と診断された。不治の病を文学者として、俳人としてこれから活躍していこうと意気込んでいた時期に宣告されたのだ。しかし、子規のすごいところはそこで自身の病と向き合い、受け入れたというところだ。

卯の花の散るまで鳴くか時鳥 (正岡子規)

これは子規が結核を診断された時期に詠んだ句である。ホトトギス(時鳥)という鳥は喉の奥が赤いことから結核の象徴とされている。卯の花が散ってしまっていることにも気に留めず、無我夢中で鳴き続けるホトトギス。それは、血を吐いてでも、文学を創り続けると決心した子規の想いが読み取れる。そしてこの頃からホトトギスという意味の「子規」という名を正岡子規は名乗り始めたのだ。

私たちは、いつか死んでしまう。
ではなぜ生きていかなければならないのか。
いつかお別れをしなければいけない。
それなのになぜ誰かと出会い、愛を育むのか。
私にはこの簡単そうに見えてとても壮大な問いに答えることはできない。しかし、『アポトーシス』が、子規が私に日常での焦りと混沌の中で、この問いに立ち返り、考える機会を与えてくれる。

なるべく遠くに行こうと私達は焦る
似た者同士の街の中 空っぽ同士の胸で今
鼓動を強めて未来へとひた走る
別れの時など 目の端にも映らないように
そう言い聞かすように
(作詞:藤原聡)


素敵な歌に出会えた。

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Photo by Tsubasa Hirosawa on Unsplash

(冒頭の写真はPhoto by Emma Ou on Unsplash)

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