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視聴覚室がない!

 「ママ! 私立高校の受験票の提出、今日だった!」
 「ええーーっ!!」

 職場で鳴った携帯は娘からのSOS。滑り止め受験する高校の願書を家に忘れて、学校に行ってから気づいて電話をしてきたのだ。忘れん坊は母親譲り。だから娘を責めることなんて、決してできない。
 娘から与えられたミッションは、「忘れてきた願書を家に取りに戻り、17時までに『視聴覚室』へ届ける」というもの。

 今は仕事の真っ最中。でもこれは、娘の人生に関わる一大事。何が何でも「どげんかせんといかん!」。これぞ正に緊急事態。心に緊張が走る。一瞬、パパに頼むべきかと、超おっちょこちょいの自分に対する不安が頭をよぎる。でも人に頼んで、ハラハラしながら結果を待つより、自分で行った方がマシだと思い直し、急いで外出許可をもらって会社を出た。

 今日は幸い雪は降っていない。遅くとも20分くらいで家に戻れるはずだーー。

 だいぶ焦りながら車を運転したものの、何とか、何事もなく、順調に、無事に家に着いた。良かった! 
 1階にいる義父母に声をかけることもせず、玄関から一目散に階段を駆け上がり、ドアはいつも開けたままの娘の部屋に飛び込む。

 願書は?? 机の上にちゃんとあった! よかったー! まずは一安心。

 緊張で尿意をガマンしていたことを思い出し、慌ててトイレに入る。
 トイレの時計は15時38分。大丈夫、必ず間に合う。学校は近い。車では5分もかからない。大丈夫。

 再び車に乗り込んで、学校へと向かう。十分時間には余裕があるはずなのだが、娘の電話に驚いて、妙な緊張感がずっと続いている。雪が積もっていなくて本当によかった、運がいい。

 学校の駐車場に着いて、車を降りる。ちょっと曲がって斜めに停めてしまったが、そんなことを気にしている場合ではない。
 走って玄関へ入る。学校の中は何だか静かだ。まだ授業中なのだろう。
 視聴覚室はどこ? 受付の案内板が見当たらない。そうだ! 学校の見取り図を見れば分かるはずだ。

「あった!」
 あれっ、でも視聴覚室はどこ? 隅々まで見渡すが「視聴覚室」の文字がない。えっ、なんで? 何でないの? また気持ちが焦ってくる。
 あたりをキョロキョロすると、掃除婦の女性がいた。よし、聞いてみよう!
「すみません、視聴覚室はどこでしょうか?」すがるような思いで近づいて尋ねた。
「視聴覚室ですかー? うーん、ちょっと、わかりませんねー」
 えー、何で? 何でわからないの? どうして? もしかして新人さん? 気持ちがさらに焦る。
 あー、そうだ! 教務室! 教務室で先生に聞けばいいんだ! 
 教務室は2階。2段飛ばしで階段を上るのなんて、高校生のとき以来で息が切れる。厚手のコートの中は、興奮して汗ばんでいるのか冷や汗なのか、蒸れた感じになっている。教務室の前で、コートを脱いだら、一気にヒンヤリとした。フーッと大きくため息をついて、ドアをそろそろと開けて中を覗く。
 娘の担任の先生を発見! 長谷川先生だ! よかったあー! よかった、もう、大丈夫だ! 
「長谷川せんせーい、すみませーん!」
 長谷川先生が声に気づいて、ドアの方へ向かってきてくれた。

「沙里(さり)さんのお母さん、どうされました?」
「長谷川先生、すみません、視聴覚室はどこでしょうか?」

 これでやっと、まちがいなく視聴覚室に辿り着ける!

「視聴覚室ですか? えっ、今日は何の用事でしたか?」
「沙里の私立高校の受験票を届けに来たんです。今日が締め切りだったんですよね? 沙里が忘れていて、電話がきて、会社から慌てて飛んで来たんです」長谷川先生に、あたふたしている理由をわかって欲しくて、同情して、労ってもらいたかったーー。

 長谷川先生が笑いながら右手を東の方向へ向けた。

「沙里さんのお母さん、森山中学校はアチラです……」

……顔が真っ赤になった。

 ここは、椿小学校だった……。

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