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居場所を探して

毎日、満員電車に揺られて通勤している。ぎゅうぎゅうの時間はさほど長くはないけれど、(あ、これ絶対まわりの人から私の存在邪魔だと思われてるな)と感じながら過ごすその時間は、かなり苦痛だ。でもそれしか仕事場に行く手段がないので、仕方なく乗り続けている。
最近仕事もうまくいかず、(この人いつまでここにいるんだろう)という視線を感じることもある。それでも暮らしていくにはお金が必要なので、気が付かないふりをして、頑張って働く。

昔のこと

実はこういう感覚は、幼少期からよく感じていたから、すこし慣れている。母が不倫していたとき、恋人と会っている間の私の預け先に苦慮してイライラしている姿を見ていたときとか、その預け先で邪険な扱いを受けたときとか。居たたまれなくなるような、惨めな気持ち。私も私のことを嫌いになりそうで、当時はつらかった。今でも自己犠牲の考え方の癖があるのは、そのせいかもしれない。当時考えていたことは、自分に年の近い(もしくは同い年の)姉妹がいて、同じように母から扱われ、二人で
「これっておかしくない?」
と確認し合える同志がいるといいな、ということだった。

そういう仲間は、大人になってもできていない。どれも人に言いにくい話だし、マイルドにして話すと
「そんなの、愛されてるだけだよ〜」
と笑い飛ばされる。そう言われると、悲しいというより虚しく、空っぽの気持ちになる。

私の居場所

ずっと居場所を探してきた人生だった。ここにいてもいいよ、と言われるのを望んでいた。それは、話題のトー横の若者たちが抱いている感情と近しいのかもしれない。大人になればなるほど「ここにいてもいいよ」と言ってくれる人は少なくなる。みな家庭を築いたり、責任のある仕事を持ったりして、居場所を与えられなくとも自分で切り開いていくからだ。その根幹には幼い頃から養ってきた自己肯定感と他者への愛が必要で、それがない私は、一生居場所を求めて野良猫のように彷徨い続けるしかないのか。

母が不倫相手と会っている時間、私はほとんど母方の祖父母の家に預けられた。逢引の時間は長時間で、時に夜遅くまでかかることもあった。祖父母の家には、家を継ぐことになっている(九州では嫡男の思想がまだ残っていた)親戚がいて、家を出た娘の生んだ子である私は、大変肩身が狭かった。一人別の部屋で食事を摂らされたり、すべての順番を後回しにされたりと、今思えば泣きたくなるような扱いをされていた。それでも、
「お母さんはいつ帰ってきてくれるのだろうか」
と一心に待っていた。母とその相手のことを明確に確認したわけではないけれど、その相手の私の対する態度(気持ち悪かった)や、母の浮かれっぷり、そのどれをとってもクロだった。それが幼心ながらにわかっていたし、祖父母に打ち明けることも許されない立場であることも自覚していた。つらくなると、いつも本に逃げ込んだ。物語の中の登場人物たちは誰も私を傷つけなかったし、突然死んだり殺人犯になったりして驚きはしたものの、それは物語の中のスパイスだった。

人生を取り戻す

大人になると、さすがに本ばかり読んでいるわけにもいかず、物語の外に出ると居場所はできないわけではなかった。若い女が彷徨っていると、どんな人間であれ手を差し伸べてくれるものだ。私にとっての居場所とは、つまり恋人なのだけれど、安寧がおとずれようとすると、なぜか自分の手で壊してしまう。居場所を見つけることは容易でも、それを大切にして居場所で「い続けてもらう」ことは、私にとってはかなり難しい。

車窓から見えるのはほとんど住宅地で、大きい家も小さい家も、新しい家も古い家もある。そのどれもが誰かの居場所で、まぶしく見える。このnoteを始めて少し時間が経ち、自分のことを見つめ、苦しくなる日々だ。それでも辞めないのは、やはり自分の人生を取り戻したい、居場所を作りたいという願いがあきらめきれないからだ。




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