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民藝運動から考える、現代における道具との向き合い方 3/3

こんにちは、「道具へのカンシャ」が芽生える体験を届けるライフスタイルブランドlilo(リロ)を運営する古谷です。第1回で民藝運動が起こった時代背景、第2回でその中心人物、柳宗悦の思想に触れてきました。

西洋化が進み、自由化の風が吹き、現代日本文化が形作られる過渡期の大正時代。誰かに作られた自由のなかで楽しむのではなく、自分の精神の欲求に忠実であることが自由であるという、もう一段階進んだ捉え方をしていた柳宗悦(やなぎむねよし)。そんな時代背景と思想が、彼を日常の雑器にこそ健全な美しさが宿っているという新たな美の価値観の提唱に駆り立てたのでした。

さて、そんな民藝運動から100年を迎えた現代は、道具と情報が溢れる世の中になりました。そんな世の中だからこそ、もう一度彼の思想に触れ、道具との付き合い方を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。今回は、柳の言葉や行動を元に、民藝運動の本質に迫りつつ考察していきます。

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引用:https://www.amazon.co.jp/dp/4061597795/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_RSTCP6B90N4RZ08XH3HY

※彼の著書『民藝とは何か』には、民藝運動とはどういうものか読みやすくまとまられています。お勧めです。

道徳性のある生産と不道徳な生産について。

柳はものが作られる過程に、道徳性という概念を持ち込みました。ものづくりに真摯に向き合い、生まれてくる道具に対して目が向くことが道徳性のある生産。一方、ものづくりの結果であるお金に目が向き、採算が念頭に置かれた生産が不道徳な生産。このように二つの生産を説明しています。

道徳性のある生産を経て出来た道具は、やはり使用者である私たちに真摯に向き合ってくれますし、ある種のいい緊張感を持ってその道具を使うことができます。道具と人間、お互いをリスペクトし合ういい関係性を築くことができると柳は言います。

逆に不道徳な生産を経て生まれてきた道具は、そのもの自体の価値よりも価格という情報が前提にきてしまうため、チープなものだからと雑な扱いをしてしまうことが多いと感じます。価格が前提にくることで真摯なものづくりは不可能になります、自分で決めた価格という概念の制約があるためです。ものに真摯に向き合うのではなく、妥協の繰り返しの末ものが生まれてきます。

モノが溢れている現代。生産されるどんなモノにも競合商品がにでもある世の中において、その商品に道徳性の有無を見出すことは非常に大事ではないかと私は感じます。普段の何気ない購買行動がガラッと変わる、とても大事なことを柳は教えてくれています。

美しさを感じる方法を知る

柳は日本人が日々何気なく使っている道具達に"用の美(ようのび)"という新しい美の価値観を見出しました。その楽しみ方について、情報が氾濫している現代においてどうしても忘れがちな、大切なことを教えてくれます。

美しさを楽しむことに対して、知識は必要ないと彼は語っています。美しさを愛でるために知識が先行してしまうと、議論が発生してしまう。議論が発生してしまうと、そのもの本来の美しさに目が向かなくなってしまうのです。その知識は美しさを素直に感じる心を覆い隠してしまいます。例えば、現代アートはそのものの美しさを感じるよりも、投資目的の購入がほとんどです。美しさよりもこれは今後価値が上がっていくかという知識が前にきているため、投資に関する議論は積極的に行われますが、そのもの自体の美しさは、その次の話です。

これが、現代アートの楽しみ方について書かれた記事です。https://asm.asahi.com/article/13034607

現代アート以外にも、スニーカーやアパレルなんかにも同じ現象が起こっているのではないかと感じます。プレミアがつくから買う、このブランドだから買う。ではなく、知識のフィルターを外してそのもの自体の美しさを素直に感じてみることが大事です。何もそれは難しいことではなく、自分の直感に従ってみるだけでいいのです。

「あ、いいな。」という直感に対して素直でいる気持ちが大事なのではないでしょうか。現代はSNSなどによって大量の情報が簡単に手に入ります。どうしても知識が先行してしまいがちだからこそ、大切なことだと私は思います。

美を通じて目指した”平和”

民藝運動とは、価値を失いかけていた日本の古来の日用品にスポットライトを当てた、新しい美の価値観の提唱と説明されることが多く、実際に私もあえてそのように表現してきました。3回にわたって民藝運動の時代背景、柳宗悦の思想の根源、そしてその考察を進めてきましたが、そんな民藝運動が真に目指したものは新しい美の価値観を作ったというだけでは収まらないものだと理解しました。

柳は亡くなる1年前に病床から肉声で学会に挨拶を残しています。この10分足らずの挨拶に民藝運動の本質が詰まっている、非常に感動的な資料です。ぜひ、聴いてみてください。

彼はモノを美しいと感じる心は、人種や世代の壁を超えた共通の感覚だと述べています。前のパラグラフで触れたように、美しさの前に知識が先行してしまうと議論(=争い)が発生してしまう。しかし、素直な気持ちで美しさを感じそれを共有し、皆で楽しむことで争いが無くなると展開しています。
彼は科学が事実を、宗教が神を心の拠り所にするように、美しいと思う感覚を心の拠り所にすることが必要なのではないかと投げかけます。

美しいものを楽しむことを心の拠り所にする。これが争いのない平和への一つのソリューションだと結論付けています。このソリューションの提唱こそが民藝運動の本質だったのです。

だからこそ、日常で何気なく使われている道具達の美しさを見出すことが大事だと理解できます。美しさを感じることが高貴なことであってはいけない。第1回で芸術はエリート層のものだったと書きましたが、貧富人種関係なく美しさを感じることができるものこそ、身の回りにある日常の道具だった。これこそが、”新たな美の価値観”の本質ではないかと考察できます。何気なく使っている道具達を少し立ち止まって見つめ直してみる。そして「ああ、いいなあ」と心の中でじんわりと感じてみる。次はその感じたものを友人や家族に話してみて共有し、皆で楽しむ。これこそが、民藝運動の真に目指した姿だったのです。

是非、日常で何気なく使っているマグカップや、スニーカーを少し見つめ直してみてください。そして、感じたことを周りの人に伝えて話をしてみてください。きっと生活がより一層豊かになるのではないでしょうか、そんな風に私は思います。

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※僕の大好きな青色のカップソーサーです。骨董屋さんで見つけました。朝にこれで煎茶を飲むのが大好きで、素晴らしい時間を一緒に過ごすことができる特別なカップです。

まとめ

3回に分けて民藝運動について書いていきました。柳の著書や資料を読み進めれば進めるほど、彼の実現しようとした世界が、民藝運動という言葉でくくることのできないほど広く大きなものだなと感じさせられます。そんな彼の思想に興味を持っていただける少しのきっかけに、この記事がなることを願っています。

liloは、「道具へのカンシャ」が芽生える体験を届けるライフスタイルブランドです。伝統ある日本の手仕事に、今までにない感性とアイデアを融合させ、思わず愛着が湧いてしまう道具を作り出します。滋賀県信楽で生まれたダッチオーブン(お鍋)を取り扱っております。ぜひ一度storeを覗いてみてください。




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