見出し画像

#ゾンビと僧 11

先生の日記
 
固定された住まいをもたない生活は快適だがいつ死ぬかわからない。死んでも誰も気がつかない。私は事業で失敗して離婚して資産もすべて精算したので戸籍をのぞいて社会をは繋がっていない。つまりいつ死んでも面倒がない。ただし街中で死ぬと私の死体の後処理で行政に迷惑をかけることになるのでこれは避けたい。私はもう誰にも面倒をかけたくない。蒸発はしたので、あとは死ぬだけだ。私にはそもそも人を雇うような器量がなかった。私のわがままに付き合ってもらった社員には心から感謝している。彼らは若くて優秀だから働き口はいくらでもあるだろう。社会に貢献する機会もある。私は年老いた愚鈍な漂流者なので何も生まない。摂取して排泄するだけだ。生きるには公共のインフラを頼るしかないのだが、私はもはや税金を納めていない。はたして納税の義務さえもろくに果たしていない私が公益にあずかることはできるのか。いやそもそも私は生きていたいのか。私はもはや社会復帰を望んでいない。社会福祉は各人が安定した生活を送ることを前提として設計されているが、私はそもそもがそのような生活を望んでいない。望むも望まないもない。いいもわるいもない。空の境地。一切は空である。
 
私には仲間はいないが隣人はいる。皆がそれぞれに独立した存在であり自律している。環境負荷を限りなく最小におさえた生活を営んでいる。ただ社会生産的な価値の創造は無いに等しいのでゼロサムだ。このゼロサムは本来は旧社会の壁の内側だけで成り立つのだが、ボーダーレスな世の中では、ゼロサムの均衡に満足しない者たちが世界のあちこちに登場する。彼らは果敢に不均衡を生む。その不均衡の差分は分配として社会に還元されるはずだが、どういうわけか持たざる者の境遇は依然として変わらない。さらには、行政サービスさえもまともに受けることができない私は持たざる者以前の者としてこのゲームに参加さえしていない。資本家を支えるピラミッドの底辺以前の存在。存在なき存在として私は束の間の解放を享受しているのだが、これは空の青さを知るといったオーガニックでナイーヴなものでは断じてない。私はそういうのは嫌いだ。
 
若い僧が会いに来た。私には信仰心はないが、無益な殺生やモラルに反することにはそれなりに抵抗がある。彼が何をしに来たのかは不明だが、手助けできることがあるならば、遠慮しないでいいと伝えておいた。彼は自身のことを迷える僧だと言っていた。私は坊主は迷える大衆を相手に商売をするものだと思っていたので、そもそも坊主が迷っていては話にならないではないかと言うと、坊主こそいつも迷っていますよ、迷いから救われることはありません、となんだかそれ風なことを言うので、思わず笑ってしまった。迷っているのなら私のようにホームレスになればいい。家も資産もすべてを捨てれば楽になる。すべてを捨ててただ存在するだけだ。すると世の中が透けて見えてくる。相対的に停まってみることだよ。私とは無関係にまわりは勝手に動いているので、私の存在の意味のなさが実感できる。

つづきます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?