#ゾンビと僧 12

私に家族はいない。離婚して子供二人は妻と一緒に暮らしていたが、年齢からすると二人とも成人して、おそらく今はそれぞれの暮らしを営んでいるだろう。両親もずっと前に他界した。親戚はいるにはいるが、どこでなにをしているのかわからない。そもそも連絡をとる手段がないので、私は私がかつて関係した人たちの動向を知るすべがない。この開放感溢れる孤独に私はずいぶんと親しんできた。ただ生きているだけでどこに向かっているのか自分でさえ知らない。私を待つのはただの死だ。待たれていようがいまいが、どうせ死ぬのならばはやいほうがいいのではと思い、私は自らを断とうと何度か死を試みたが、自分の人生に意味を見いだそうとする浅ましき私の心が邪魔をして毎回途中で断念している。さっさと死ねばいいのだが、なかなかできない。
 
仲間が死にたいと言っている。それでお前のところに若い坊主が来ていただろう。死んで野晒しになるのも嫌だから、あの坊主のところで引き取ってくれないか。ついでにお経でも唱えてもらったらすっきりするだろうから、今度会ったときに伝えて欲しい。死にたいと言いつつ、死後の心配をするのは滑稽だが、現代社会では無意識と無意識の狭間でことを為すのはほぼ不可能だから、他人の目に触れるのであれば前もって配慮をしておくのはマナーであろう。
私はさっそくあの僧に連絡をとった。僧は条件があると言った。面倒はみるが死んだ後の身体の処理はこっちに任せて欲しい。死んだ後だから別に構わないがいったいどうするのだと問うたところ、ゾンビにするのだと言った。ゾンビはそんなに簡単にできるものなのかとさらに訊くと、わからないと言った。若き僧は久しく会っていない間にずいぶんとエスカレートしたようだ。彼はもう後戻りできないところまで行ってしまったのかもしれない。おもしろそうだから、私は仲間には適当に取り繕って話を進めることにした。
 
なんでも僧が言うには、ゾンビとはただの質量で力学だという話だ。こういう素人の自分勝手な解釈は論理が破綻していて、適当な理屈をみつけてはいいように補強するので手に負えないから、まともに取り合わないのが一番である。だから私は彼の解釈には口出しせずに、神妙な面持ちで終始うなずいていた。仲間の気が変わらないうちに、はやくことを遂行してもらうよう仕向けたのである。仲間はいつ死んでもいいと言っているからあとは僧だ。彼はいちおう職業的僧なので、それなりに急がしく、さらには最近はなんだか好きな女性ができたとかでいまいち集中できていない。不安である。私もできることならゾンビの誕生を見たいので、もう一度若き僧に会って、ゾンビへの集中力を高めてもらおうと掛け合うつもりである。
 

つづきます
 

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