見出し画像

楽器で語る言葉と場所 


 ふと、思い⽴ってジャ ズを聴きに⾏った。中央線某駅からすぐの⼩さな⼩さなジャズバーだ。狭い飲み屋街の雑居ビルから地下に降りると、そこは10数⼈⼊るといっぱいという店で、通常はまさに「飲むところ」。

 その晩の出演予定は、以前少々⼤きなライブハウスでよく聴いていたピアノトリオ(これも⼤好きなメンバーだったがピアニストが不幸にも亡くなってしまった)に時々ゲストで来てたアルト奏者。どこかアルトというより、テナーの⾼⾳、延⻑のような太くノイジーな⾳⾊、バップからモードまで網羅した緻密だがどこか気まぐれで浮遊感のあるフレーズ、しかしいつも全体的には自分の追いかける音空間が見事に構成されているというスタイル。訥々と奏でる実にオリジナルな彼の⾳は、⽇本⼈にはあまりいないタイプのジャズミュージシャンに思えた。
 
 8時を少々過ぎたところで、カウンターに一人座っていた彼が、おもむろにサックスを持ち、少し広いスペースにある椅⼦に座り、⼀⼈で吹き始める。PAを通さない「⽣」の⾳が、店内に響く。管に吹き込む息がリードを震わし、⾳になる瞬間の醍醐味。それが絶え間なくダイレクトに⿎膜を震わせ身体に響く。⾳の圧⼒が直に伝わる快楽。それが、ライブハウスの演奏空間だ。

 15の頃 初めてサックスを⼿にし、大学に入っても夢中になって吹いていた。しかし、それだけの時間ではとても⾃在に語ることなどできず、就職共に⼀度⼿放した楽器。おそらく私と同じぐらいの歳であろう彼は、それを今もなお吹き続け、「今⽇の話」を語り続けていた。即興演奏はすべてを記録することはできない。E.ドルフィーが言ったように「音は放たれた瞬間から消えていく」のだ。そして偶然その場に居合わせた人たちがそれを体験し共有する。録音は音の記録ではあるがあくまで仮想の記録だ。リアルの代替物には決してなりえない。あったであろうリアルを追想する素材だ。

 楽器で語り続ける⽇々は、演奏家をどこへ連れていくのか。聞き手はその一瞬の断片を共有し記憶するだけである。「演奏」を⽇常とするミュージシャンとそれを「⾮⽇常」として聞く聴衆。どんなに⾄近距離で聞いていても、そこには驚くほどの人生の断絶がある。2回のステージを終えて、彼は「今⽇は、これぐらいで」とニコッと笑い、⾔った。演奏は終わりのない⾏為だ。でも、⽇付のある⾏為だ。聴いた誰かの記憶に残る。

 帰りの深夜の中央線は空いていた。ぽつぽつと座っていた若者の⽿には、すべてスマホのワイヤレスフォン。いまやネットの向こう側に巨大な音楽アーカイブが聳え立ち、私たちはサブスクリプションを購入しさえすれば、いつでもどこでもどんな音楽でもすぐ聴ける。探す手間は一瞬でザッピングもし放題。音の限りない無料化と断片化は、視聴の情報消費と飽食を生む。身体体験としての音楽が形骸化する。そして演奏家の渾身の手さばきやエナジーは、容易に人々の記憶には刻まれない。もはや「アウラ」を欲望するのはとてつもなく贅沢なことなのだ。

 確かに音楽情報の「民主化」と世界の「プロシューマー化」によって、大衆的な文化リテラシーの底上げは驚異的に進んだのかもしれない。しかしプロの演奏者はますます閉域に囲い込まれているように感じる。プロとはそれに人生のほぼすべてをかけ、それで食べていくことを決意した者達だ。彼らは退路を断って演奏をし、日々「自分の言葉」を語る。それを目の前の数人が受け取る場合もあれば、数十万人の巨大な群衆が受け取る場合もある。どちらも本来は一回性のものだ。そしてその対面の濃度がとてつもなく演奏に影響を及ぼす。

 スタジオ録音は未知数の聴衆を想定し、共に探り合いながら自己あるいは演奏家同志の対話を図る。それは表現のある種の「標準形の提示」とも言える。それらの成熟は、常にライブ空間での豊かな演奏の反復の中にある。演奏家にとって、曲は楽器を通じて日々の言葉を語る素材に過ぎない。しかしそれらは貴重な表現のためのエッセンスだ。どれだけ音源情報がネット空間にばらまかれようと、人々が音を「体験」し、深い感銘や影響を受け、長い記憶に刻み付けるのは、やはり演奏行為の目前でしかないような気がする。

ライブの一回性と録音の近代の100年の進化を想う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?