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親の呪縛からの逃れ

子供を持って色々な事に気づく。

元々家庭環境が複雑だった私は
長い事"家族"といつ義理だった形に苦しんだ。

子供は親を思う。
親が思ってる以上に考えてたりする。
義務教育上はどんな家庭でも家からでる事は難しい。
私は母が再婚した相手は、自衛官で厳しい上に、
同級生の異性の連れ子がいた。

物心がつくまでの小学の低学年までは
あまり何も知らずに上手くいっていた。
高学年近くなった時から、
働いていた母がいない間に教育とは違う
今言う虐待がはじまった。
母には優しい。が、子供は気に食わないのだ。
(この辺についてはまた別の機会に書こう)

母が一生懸命"家族"という形を作ろうと
父の機嫌取りや、母の価値観が全ての枠に
はめられていた。

社会人になり、子供を持ち、
自分のpaceができ、時々遊びにくる母の
価値観の押し付けに、疲れた時に呪縛がとけた。

溶けたのは旦那の一言だった。
「俺は別に自分のペースでやったっていいと思うし、
何も押し付けなきゃという気持ちがない。むしろやってくれてる事を減らさなきゃ、自分の時間ないでしょ。
俺がいいんだからいいんだよ。」
その一言で縛られてる何かが解けた。

確かにそうだ!と思った。
母には母の家庭のやり方がある。
私も家庭ができたのだし、私の家庭だ!子供が小さいうちは時間が限られてる。できる時にできる事を…。

呪縛の恐ろしいところは、
思考が植え付けられる事だ。
同じ様にできなきゃ、やらないと決めつられ、
しまいに自分で勝手に動き、
私はこんなにやってる!とやってる感をだし、
自分に不都合な事があるとそこを攻める。

気づいたらその押し付けに
やらなきゃ…と変な自分を追い詰めるプレッシャーに
自分で自分の時間に苛立ちを感じるようになる。
一種の母親のマインドコントロールだ。

子供が小さいほど余裕はなく、
幼稚園に行き始めたら更に時間に追われた。
いつの間にか疲れていた。
旦那の一言で
呪縛が解き放たれ、自分のペース中心になると
子育ての仕方にも余裕ができた。

気づいたのは母と私は正反対の性格だ。
不器用だと言われ育てられた私は社会にでたら
器用に何も不便なく仕事ができた。
母の中で私の成長は高校までの勝手な母目線で止まってるのだ。

自分が子育てをしはじめ、私から見た母という人物が
大雑把で何も自分ではできない人だと気づいた。
子育てを自分がはじめるまでは母は何でもできるスペシャリストだと思っていた。
仕事の関係で、母とあわなくなり、頼る事もなくなり、
気づけば母以上に自分が経験した事が大きくなっていた。
時代は変わっているのだ。

私は子供を育てる際には人として接する。
1つの見方で一方的には絶対しない。
それぞれの思考があっていいし、
大人の考えが全て正しいは違う。

子供たちが思う等身大の気持ちを
どう活かして更に伸ばしてあげ、
考える助けをしていく。

子供が義務教育と呼ばれる狭いくくりの中
選択の自由があっていいと思うし、
寄り添って、一緒に苦楽を共にし絆になれば
それが一番大切な家族のあるべき姿なのかもしれない。

どうあるべきか…ではなく
親も子供も人間なのだから、
どちらかの意見を一方的にしてしまうと
権力がない子供にとっては押し付けでしかなくなる。
子供も気持ちの限界があるのだから。

学校での人間関係や、子供から見た大人世界。
子供も日々色んな事に葛藤しながら生きている。

親もまた人間だ。
"子供に親にして頂く"
本当にそうだと思う。
母にしてくれたのは子供だ。
色々な経験にであわせてくれる。

その中でどうお互い成長できるのか。
子供は成長していく。
親も成長した子供を受け止めてアップデートして、
"こうだった"をアップデートしていかなければならない。

こんな人…という決めつけは
人を育てる概念ではないのだから。

又、母と自分は違っていい。
自分も老いていくのだから…。
自由でいていいのだ。

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