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「暮しの手帖」を読む(1957-1969)


私の”幼なじみ”

幼い頃、「暮しの手帖」を熟読する子供だった。
文章はほとんどわからなかったが、見出しの大きなアルファベットや数字、台所の流しやコンロの模型の写真、ビタミンの種類を紹介する妖精たちの絵、カラフルな表紙などを眺めることが大好きだった。飽きなかった。

母親は顔をしかめて
「友だちと遊んできなさい」
と叱ったが、同世代の子供は正直怖かったし、どのようにふるまえばよいのか、皆目見当がつかなかった。子供たちの流行り物にも関心が向かなかった。遊びに行かされるたび「早く夕方にならないかな」と、ぼんやり願っていた。
”コミュ障”という言葉など、もちろんない時代。

先日放送された連続テレビ小説「ブギウギ」で、福来スズ子の娘・花田愛子が母親から一方的にそのセリフを言われる様子を見て、胸の奥に残る、はるか遠い昔の痛みがほのかによみがえった。もちろんうちは親が大スターでも、広い高級邸宅でもないのだが。

家では1957年発行の第37号からバックナンバーを保管していた。しかしある日学校から帰って、さて読もうと思ったら押し入れから姿を消していた。

「古いから捨てたよ。」

母はこともなげに言った。
購読自体は続けていたので、新しいバックナンバーはあるのだが、それでは面白くないのだ。

大人になるとこの雑誌のことをほぼ忘れたが、インターネットの時代を迎えた頃にふと思い出し、

「そうだ、今は古書店で大人買いできる!」

と気がついて、自費で37号から100号(1969年発行)まで買い揃えた。懐かしい写真やレタリングとの再会に目を細めるとともに、大人になったからこそ見えてくるものが山ほどあった。

ざっと目を通すだけで、ここに引用できないような「不適切用語」がポンポン登場する。もちろん筆者には差別する意図など微塵もない。”ポリコレ”の力の強さを改めて突きつけられる。

商品テストの長口上

「暮しの手帖」は現在でも発行されているゆえ、”伝説の家庭雑誌”と形容したら、暮しの手帖社に関わる皆さま方に失礼だろうか。だが、それを承知の上で黎明期(100号まで)に対しては、どうしても”伝説の”をつけたくなる。

「暮しの手帖」はカリスマ的才能を持つ編集者・花森安治氏(1911-1978)により、1948年に創刊された。

「この社会で一番大切なものは一般庶民の日々の暮らし」を基本姿勢として、衣食住に始まり、医療や育児、家庭教育に至るまで広範囲を掲載対象としている。家庭内をちょっぴり彩る工夫を紹介する「エプロン・メモ」などの短文記事、大人の女性向けのファッションカタログページ、クラシックレコードガイドページなどもある。

並行して著名人による随筆寄稿、外国の風物紹介、人の心理や癖を考察する記事、花森編集長による世相批評なども掲載されている。

戦後、新しい憲法で規定された「基本的人権」「平和主義」「平等」「民主主義」の概念を生活者単位で実践して、定着させるための道しるべを作ろうとした志がページの隅々から匂い立つ。

この雑誌を一躍有名にした企画が「商品テスト」である。
様々なエピソードが語られているので、その概略は省く。
大人になってから改めて読んでみると、単に結果や評価を書くだけでなく、少しでも面白く読んでもらおうという工夫がなされていると気づく。現代における「プレゼンテーションの大切さ」とはひと味違う。

一番笑ったのは第48号(1959年)に掲載されている「印刷してある通りの分量が入っていたか」。工場生産される食料品や衛生用品について、都内および近郊で10点購入して、その内容量を専門の計量士に測定してもらう。パッケージに記されている数値と比較して、誤差が小さく正確と判定できるサンプルを〇、少なかったサンプルを●、多かったサンプルを◎として、メーカーごとに大相撲の星取表の如く記す。

単に結果を見せるだけでは無味乾燥に過ぎると考えたのか、商品ごとに長い前口上が添えられている。たとえば「ココア」は北原白秋の短歌

一匙のココアのにほひなつかしく
訪ふ身とは知らしたまはじ

から始める。

ココアを飲むこともいわば時代(注・歌集「桐の花」出版の1913年)の先端をゆくおしゃれのひとつであった。それから50年、ココアは日本のすみずみにまで日常飲料として、すっかり行きわたっている。
それはそれとして大いにご同慶の至りだが、かんじんの量目はどうだろうか。

「暮しの手帖 第48号」(1959年)より

と進めて、結果発表に移る。

「小麦粉」は

皇太子妃に決定した正田美智子さん以来すっかり人気者になった。量目の方はどうだろう。

「暮しの手帖 第48号」(1959年)より

と、世相を反映したコメント。

「オレンジ・ジュース」。

トッキュウの旦那が胴間声(注・ドラ声)を張りあげて、
「カクメイだ、カクメイだ」
と皇居前へ米よこせデモに集まった群衆にアジ演説をブチまくったのが(昭和)21年5月のこと。GIがバヤリーズのオレンジ・ジュースをうまそうにラッパ飲みしながら、横目でニヤニヤしてそれを眺めていた。

「暮しの手帖 第48号」(1959年)より

ん?トッキュウの旦那?
…考えを巡らせること数分。
もしかして、徳田球一(1894-1953)のこと?と思い当たった途端笑い転げた。私の年齢で辛うじて思い出せるくらいの人物、今の人はほぼ知らないだろう。

この文章の執筆時点で、国鉄の特別急行列車を「特急」と略す習慣はまだ定着していなかった証拠にもなる。

口上はさらに続く。

今日、トッキュウは死に、国家の革命はならなかったが(中略)資本主義のハンペイ(注・藩屏)をもって任ずる重役諸公の宴会の席でも、お酒のいけぬ人の前には、女中さんが黙ってオレンジ・ジュースをおいていってしまう。
「わしはジュースは大きらいだ。番茶を持ってきてくれ」
と反革命のバック・ボーンを堅持しても、そのご当人が、オレンジ・ジュースといわず単にジュースと呼んでいる事実からしても、飲みものの革命はおおよそ成ったかのように見える。

「暮しの手帖 第48号」(1959年)より

で、ようやく量目テストの結果発表に入る。ジュースひとつに何とも大げさな、誰やねんこれ書いたの。

結びは売価が店によりバラバラなことを指摘して

こう岸(信介)内閣のようによろめかれては、せっかくの飲みものの革命も大東亜共栄圏のように画に描いたモチに終るおそれがある。

「暮しの手帖 第48号」(1959年)より

全体主義の辛さ悔しさ息苦しさ、戦争の恐怖と悲惨が骨身にしみた世代の笑わせ方はひと味違う。この種の文章に触れるたび、笑うにも教養が必要としみじみと感じる。いつの時代にも「学校の試験で覚えるだけの教養なんていらない」とうそぶく人は現れるが、それは「今から少しずつ自分の首を絞めます」と言うに等しいと気がつかないのだろうか。

この記事では「正確な〇判定のほうが、多すぎる◎判定よりも優れている。◎が多いということは●も多く、ばらつきが見られることを物語る。全体的に◎が多い、気前の良い商品は量目表示もそれに合わせてほしい」という総評を載せている。「ステルス値上げ」が横行する昨今の情勢を鑑みると、隔世の感がする。

昔のテレビは

第56号(1960年)には、テレビ受像機の不調対処方法(現代の言葉ではトラブルシューティング)を紹介する「ここまでは誰でも自分で直せます」という記事が掲載されている。

テレビ放送開始(1953年)当初の受像機に関しては、今や神話のように語られている。

・4本足がついていた
・緞帳が張られていた
・具合が悪くなったらとりあえず叩く

などなど。送信側の故障による「しばらくお待ちください」の画面なども懐かしく振り返られている。

が、落ち着いて科学的に対処する方法が当時から解説されていたという史実は伝わりづらい。

「人物の顔がヒョロ長く、もしくは平べったく映っていたらテストパターンの円形を見ながら、キカイのうしろにあるハイトとVなんとか(V LINE、垂直直線性)ツマミをまわして正しい円にします。画面にハデな縞が出たら水平同期、英語でいえばHなんとか(H.HOLD)と書いてあるツマミをまわします。」といった調子で指南している。そこまで親切に説明するのならば、「受像機はとても精密に作られているキカイなので、くれぐれもたたかないで、やさしく扱ってください」というひと言も入れてほしかった。

この記事ではNHK受信機部から提供されたサンプル画面の内容のほうに目が向く。野球中継のスコアボード、あまりにも大雑把な矢印ひとつの台風進路予想図(それも南の海上に3個)、当時国交がなかった中国大陸の概略地図など、昔のテレビ放送のリアルが伝わってくる。

電圧が低いと画面が小さくなる、という現象も紹介されている。当時は電力供給の質もあまり安定していなかったとわかる。

憧れのアメリカン・ライフスタイル

暮しの手帖社は米国の家庭雑誌"Good Housekeeping"を発行する出版社と提携していたようで、日本語に翻訳された記事がよく掲載されている。1950年代発行の号ではかなりの紙幅が割かれている。子供向けの可愛らしい絵も載せている。アメリカのやり方について思うところは少なからずあったはずだが、高度成長が本格化するまでは、やはりアメリカンスタイルが「暮らしのお手本」でもあったのだろう。英語やローマ字書きのレイアウトも随所にちりばめられている。

第41号(1957年)には、「夫と妻と男の子と女の子と家庭と」と題する翻訳記事が掲載されている。男の子とは、女の子とは、夫とは妻とはおよそ如何なるものかを、ユーモアと少々の皮肉を込めて綴っている。

妻の身にいみじきものは、新しき服と帽子、出で歩くこと、お茶、ショウ、向う三軒両隣り、(中略)石けん、赤ちゃん、パーティ、レタス、小説、おしゃべり、(中略)浴槽、他人の誕生日、ちゃんと時間通りダンナさま帰りきて、プレゼントの包みにいたくビックリよろこぶこと。

うたてきもの。拳闘の試合、蛾、ねずみ、男の運転、取り散らかせる仕事場、(中略)風呂に入らぬ児、キャンプ旅行、夫が横目で見るなと分る、あのタイプの女たち。

「暮しの手帖 第41号」(1957年)より

ほとんど『枕草子』類聚段のノリではないか。米国人にもあのような発想をする人がいたとは!原文の"What is a boy?"は1949年に米国で流行した、と紹介されている。

花森氏は当時のアメリカで人気だった男性コーラスグループを率いるミッチ・ミラーのファンだったという。かつての小学校運動会定番曲「クワイ河マーチ」や「大脱走のテーマ」などをヒットさせた、あの時代のアメリカンホームソングを代表する人物である。

クジラの角煮

料理レシピの記事は執筆者が異なり、また違った味わいがある。当時の一流レストランシェフが監修したものも多い。今では「店で料理人が出す料理と家庭料理は別もの」という考え方が主流だろうが、当時は家庭料理の質的向上を目指すため、料理人に教えてもらうという考え方があった。

麻婆豆腐など現代の生活に定着しているメニューが「このごろの流行り」として紹介されていると思えば、クジラ肉950グラムで角煮10人分を作るという、今では考えられない豪快なレシピ(第48号)もある。家庭用電気冷蔵冷凍庫は既に普及していたが、その性能は貧弱だった時代。明らかに大人数家族を意識していたのだろう。

時代が下がると編集部員が考案したレシピが登場する。第73号(1964年)では「ゆでめん」(うどん玉)を外国風に調理する実験が掲載されている。上段に添えられている、編集会議の様子を綴った文章が楽しい。失敗作も多い中、ミートソースやハッシュドビーフ、あさりのトマトソース(今でいうボンゴレロッソ)、うどんそのものの天ぷら、ギョーザ風焼きうどんなどが好評だったという。現代のさぬきうどん店の職人さんが見たら何というだろうか。そういえばジャンボフェリーの売店で、うどんを揚げたお菓子を見かけた。

第82号(1965年)には「ピーチパイ」の作り方が紹介されている。「不思議なピーチパイ」(作詞:安井かずみ、作曲:加藤和彦、歌唱:竹内まりや、1980年)の歌はヒット当時からよく知っていても、現物を作る写真は、そういえば見たことがなかった。料理記事の変遷は、戦後日本の食生活が豊かになる過程でもある。

当時有名だった料亭の店主が監修した日本料理系のレシピを読んでいくと、「化学調味料(本文では具体的商品名)で味をととのえる」という指示が頻出していると気づく。合成着色料などに厳しい「暮しの手帖」としては少々意外だった。想像するに、昔は質のよい食材が一般家庭レベルで簡単に入手できなかったため、苦みやエグみ、青臭さを緩和するために有効な手立てだったのだろう。母は化学調味料を常備していて、父が料理する時も当たり前のように使っていたが、私は全く使っていない。

買物哲学

第99号(1969年)の冒頭に「10円玉1コのちいさな世界」という記事が掲載されている。現在「昭和レトロ」としてもてはやされている、駄菓子屋のおもちゃがきれいな写真で紹介されている。「点数占い」もある。髪飾りのカチューシャには「戦前の呼び名がいまでも通用している」とコメントされている。虫めがね、巻尺など現代の100円ショップで見かける商品もある。

「暮しの手帖」ゆえ、単に「こういうものがありますよ」では終わらない。10円商品が作られるまでのフローチャート、作る人たちの現場の様子まで取材している。現代の100円ショップのやり方も、基本は同じだろう。

第82号(1965年)にはレディースオーバーコートが取り上げられている。そこに写っているモデルさんの着こなしぶりが美しい。新品ではなく、モデルさんが何年も愛用している私物らしい。「目先きの流行を追わないで、しっかりした生地で、しっかりした仕立で作る、そのために多少の無理をしてでもお金をかける、ということが、あたりまえだということになってくるのではないだろうか。」

この考え方は長い間”時代おくれ”とされてきたが、近年静かに見直されていて、感慨深い。「暮しの手帖」の買物哲学は常に明快である。

日本紀行

昔の「暮しの手帖」で最も趣を感じる記事は、日本各地の町を写真で紹介するグラビアページである。写真撮影は花森編集長と懇意にしていた写真家、松本政利氏が担当している。そこには観光地化される前の”素顔の町”が記録されている。

1950年代の号では、現地にゆかりのある著名人にコメントを添えてもらう形式で掲載されている。第38号(1957年)の「盛岡」は、作家の野村胡堂氏(1882-1963)に依頼している。今の人にはあまり知られていないだろうが、時代劇小説「銭形平次捕物控」の作者である。旧制盛岡中学校で石川啄木(1886-1912)の先輩にあたり、啄木とともに校内短歌会のメンバーとなっている。

コメントの多くは啄木との思い出に割かれている。啄木が

盛岡の中学校の
露台(バルコン)の
欄干(てすり)に最一度我を倚(よ)らしめ

「一握の砂」より

と詠った盛岡中学校の校舎はその時点で盛岡赤十字病院になっていたが、建物はそのまま使われていて、「中学校のバルコン」の現物が写っている。これは結構感激する。

その後建物は解体され、1983年跡地に岩手銀行本店が移転している。

この号が発行された時点では、困窮にあえいでいた石川家にしばしば経済的援助を行っていた、啄木の友人・宮崎郁雨氏(1885-1962)も、「宮崎氏は信用できない。啄木の妻・節子(1886-1913)と不義に及んでいたのではないか」と主張する啄木の妹・三浦光子氏(1888-1968)も健在で、にらみ合いが続いていた。純粋に学生時代の啄木を懐古できる立場にいた野村氏に寄稿を依頼したのは賢明なアイデアと思う。

1963年9月発行の第71号からは「日本紀行」と題する大型記事が隔号で掲載されている。(NHKのドキュメンタリー番組「新日本紀行」は同年4月放送開始。)まだ貴重だったカラー写真をふんだんに載せる一方、そこに住む一般庶民の姿がわかる写真も添えている。

神戸、札幌、松江、東京台東区合羽橋、高山、陸別…。現代の有名観光地も、よくそこに目をつけたという街もある。

神戸の回(第71号)では、現在でもジャンボフェリー「あおい」のテラスから望める和田岬の三菱造船や神戸税関の古いビル、震災で倒壊した阪急三宮駅、図らずも震災で古い壁面が露出したそごう神戸店の改装前の姿、灘神戸生協やスーパーダイエー三宮店などが写っている。

路面電車が町を闊歩している。神戸の回では元町大丸百貨店前、阪急電車の派手なネオンサイン下を行くモスグリーンの市電。合羽橋の回(第80号・1965年)では、三ノ輪車庫発東京駅行き31系統、クリーム色に赤帯の都電が車道の真ん中にドカンと停車している。合羽橋は大衆食堂営業に必要な備品類を販売する店が集まる町。そこで働く若者の姿も記録されている。「集団就職」は今でも時折話題に上るが、東京に来た後の彼らが具体的にどのような生活をしていたかは、今ではほとんど顧みられていない。

圧巻は第73号(1964年)掲載の「札幌」。見開きいっぱいのカラー写真、ポプラ並木を遠方に望む、雪残る一面の原野に「月寒付近」と記されていてびっくり。札幌集中がいかに進んだかを思い知らされる。

札幌の回は文章もまた秀逸である。1882年に北海道開拓使が解散した後数年間、札幌農学校が中央政府から不要視された経緯を綴っている。1885年には太政官大書記官が「百姓に学問は不要であり、実利勧業に重点を置くべき」という内容の報告書を政府に提出して、学問レベル切り下げに舵を切ろうとした。そこに札幌農学校を卒業して留学に出ていた佐藤昌介(1856-1939)が帰国して「高等専門教育こそ開拓に必要」と真っ向から異議を唱え(1886年)、学校の拡張を勝ち取ったという。つい最近も似たような話をどこかで聞いた。

それから80年が過ぎた今、札幌は人口70万の大都会になったが、町のそこかしこに「東京」がアピールされている「ベルトコンベアー都市」であると、筆者は嘆く。時計台の鐘はトラックの騒音に埋もれ、ポプラ並木は枯死寸前。開拓の理想はどこへ行ったのか。

あまりたくさん引用すると暮しの手帖社に叱られそうだが、末尾の詩は小学校時代から長く私の記憶に刻まれている。

札幌よ。
いま一(ひと)たび、ここにかがやかしき星をかかげ
りょうりょうと北風に歌わしめよ。
老人すでに黙すとあれば、
若き者たて。
男子すでに志を失うとあらば
女子立て。
立って、日本にただひとつ、
ここに、理想の町つくりはじまると
世界に告げよ。
Boys and Girls,
Be Ambitious!

「暮しの手帖 第73号」(1964年)より

「カワイイ文化」に敗れた価値観

「暮しの手帖」編集部は、フリルやレースなどの「可愛らしい装飾」を施した衣類に対し、しばしば強い警戒感を示している。今の感覚から見れば、潔癖が過度にすぎる印象を与える。「ふしだらな情を喚起させるもの」という思い込みによるフレーミングが、誌面で堂々とまかり通っている。

キャラクターグッズにも厳しい。第83号(1966年)で花森氏は「なにもかも漫画だらけ」という一文を載せている。鉄腕アトムやおそ松くん、オバケのQ太郎などのキャラクター商品を山ほど集めた写真を撮り、

「漫画だけでこどもは生きているのではない。ものにはケジメが必要だという、ごくあたりまえの考え方がなくなってゆくことのほうが問題なのである。」

さらに、メーカーが支払うキャラクター使用料にも言及して、その分が価格に上乗せされていると指摘している。

その使用料は「暮しの手帖」が日頃憂える劣悪な暮らしに甘んじ、マンガやアニメの世界で日々膨大な量の仕事をこなす多くの若者たちの給料にも使われたはず。彼らは子供たちに少しでも喜んでもらうために日々働いていた。さらには花森氏の志にも通じる、平和やひとりひとりの生活を尊重するメッセージもマンガで親しみやすく、わかりやすく発信できるようになることを夢見つつ、情熱を傾けていた。花森氏はそこまでお考えが及ばなかったとみられる。

マンガやアニメ、1980年代以降はテレビゲームがメインカルチャーになり、今や官公庁でもキャラクターを作ってアピールすることが当たり前になった。フリルやレースは、シンプルに「きれいで可愛らしく、夢があって心なごませるもの」として広く受け入れられた。日本発の「カワイイ」文化が世界に伝わり、「暮しの手帖」が是としたトラディショナルカルチャーと並行に語られる今の世は、花森氏はじめ当時の暮しの手帖編集部の人たちには想像もつかなかった未来であろう。「暮しの手帖」が戦後から高度成長期にかけて培ってきた価値観は「カワイイ」を尊ぶ文化の前に敗れ去った、といえるだろう。

筆致の老い

1969年に100号を迎えた「暮しの手帖」は、次を101号とはせず「第2世紀第1号」と称した。雑誌サイズが大きくなり、カラーページも増えた。しかし皮肉なことに、このあたりから筆致の端々に「老い」が感じ取れるようになった。高度成長が峠を越え、国民のほぼ隅々まで電化製品が行き渡り、あふれるほどの生活物資を前にして目標を見失った感がある。旅行も写真も料理も服飾も育児も文芸も、専門雑誌が肩代わりするようになった。花森氏の主張も的外れや、過度な悲観論が増えてきた。このあたりで「暮しの手帖」は最初の社会的使命を果たし終えたと見る。

花森氏は1978年1月逝去した。新聞を見ていた母が私に教えてくれたことを、今でもよく覚えている。66歳で、当時でもまだ若かったが、常人の一生をはるかに超える仕事をやり遂げたと思う。

その後の「暮しの手帖」は、花森氏の遺志を継ぐことを第一に据えた、身の丈に合った雑誌として現在まで続いている。100号ごとに次の世紀とする方法も続けられていると聞く。私の家ではいつ頃まで購読していたかよく覚えていない。母が「この頃は面白くなくなった、もうやめる」とつぶやいたことのみが記憶に残る。やがて私の視界からも姿を消した。

2006年ごろには再び注目する動きがあり、世田谷文学館で展示会が開かれた。私も出かけて懐かしいイラストや、母が購読を始める前の号の表紙をたっぷり時間をかけて眺めた。この時は表紙の写真やイラスト、雑誌レイアウトを「アート」の一種としてとらえなおす視点も紹介されていた。

「暮しの手帖」表紙写真。ナベもお盆もアートになる
題字やイラストは花森氏が自ら描いていた

出でよ「暮しの手帖オタク」

花森安治氏の生涯は、ドラマの題材になりにくいだろう。戦争で破壊された庶民の暮らしの質を復興の追い風に乗って飛躍的に向上させるお手伝いをして、「普段使う物だからこそ科学的に見る目を養うべき」と、今でいうリテラシーの概念を読者に与えた功績の影には失敗や過度の思い込み、今ならばハラスメント認定されてしまうであろう言動も少なからず伝えられている。放送局にもだいぶケンカを売っていたし。

古関裕而氏や服部良一氏のように、作品の圧倒的な力で脚本や演出の多少の粗をねじ伏せるという技も使えない。前述したようにコミック文化、カワイイ文化がメインカルチャーの仲間入りを果たすという未来を予見できなかったのだから、下手に「現代的視点」など入れてしまうと、大きな矛盾が生じかねない。

その一方で「第1世紀暮しの手帖オタク」が新たに現れてほしい、とも思う。今はこのnoteをはじめ、誰でも文章を書いて簡単に発信できる時代。暮しの手帖社に就職した新人編集部員が原稿を提出したら花森氏に最後の句点以外全て赤鉛筆で直されたという類の苦い思いを味わうこともない。

だが、うっかり下手なことを発信するとたちまち袋叩きに遭いかねない危険がはらんでいる。「レビュー」欄を設けるネットショッピングサイトはたくさんあるが、「暮しの手帖」商品テストのように客観性を持って科学的に判定して、忖度なく発表するシステムにはなっていない。むしろ逆で、いわゆる「サクラ」か、さもなくば個人的不満をぶつける場と化す場合が多い。ネットの時代ゆえの詐欺や悪質商法も増える一方である。デジタルツールの技術進歩はあまりにも速く、いちいちテストする暇を与えない。人生の大半をアナログ環境で暮らした世代は、なまじ長生きしてしまったが故に、老いてなお新たなツールに慣れるよう要求される。子供や青年の「スマホ脳」を問題視するその口で、スマートフォンがないと何一つできない社会を作ろうとしている。デジタル機器の稼働には電力が必須。何らかの事情でその供給が途絶えてしまう際のフォローアップなど考えもしないまま「便利になります」と一方的に喧伝する。今の消費者は自分ひとりでかつての「暮しの手帖」編集部に匹敵する、いやそれ以上に高いレベルのリテラシーを身につけなければならない。「暮しの手帖スピリット」は今の世にこそ求められる。

「NHKスペシャル」などで作られる再現ドラマでは、相変わらず出鱈目な時代考証が横行している。先日放送された「下山事件」は俳優さんたちの熱演に引き込まれたが、主人公の布施検事が1976年に田中角栄氏の逮捕に踏み切る場面、新聞号外が配られる町の描写で全部が台無し。煉瓦造りのビルが並ぶ背景セットはどう見ても1920~1930年代。一瞬にして説得力が失われてしまった。

1970年代は昔の煉瓦建築が最も邪魔者扱いされた時代。東京駅丸の内側駅舎も、八重洲側と同じような高層ビルに建て替えたいという構想があり、有志が「東京駅の煉瓦駅舎を保存しよう」という活動を行っていた頃である。

1959年の場面で新聞記者が都電にはねられて怪我をしていたが、その車両もまたはるか昔、1920年代に使われていた形式を模したスタイル。放送事故もので、あまりの情けなさに絶句した。NHKには1950年代の都電を撮影した記録映像があるだろうに。さらに「暮しの手帖」に目を通していたら、あのような演出にはならなかったはずである。

大手メディアの精巧な映像で、戦後の歩みや世相風俗の実相が歪曲されかねない今の世の中だからこそ「昔、花森安治なる人ありけり」と、どこかで伝えられてほしい。「昭和歌謡ポップス」のように、ブームや新たなカルチャーになる必要はない。あくまで静かに語られてほしい。

戦後や高度成長時代の再現ドラマを作るのならば「暮しの手帖」を必修教科書にしてほしいくらいである。「暮しの手帖オタク」がNHKの”中の人”になって、「その背景セットはおかしいですよ。その頃既に時代遅れ扱いでした。」と演出にチェックを入れてくれるようになることを、密かに夢見る。

振り返れば私は、大人向けの難しい文章をまだ理解できなかった頃から「暮しの手帖」を”友”としたことが、無意識のうちに生き方の基礎になった。そこそこ知的な暮らしを送ることができたのは「暮しの手帖」に育てられたおかげである。

既に人生の半ばを過ぎた私はそれでよい。が、これから目を通す人にとって、初期の「暮しの手帖」はもはや”準古典”である。発行当時の世相や昔の風習を知らない人は、注釈がなければ読み切れないだろう。しかし幸いなことに「暮しの手帖」は印刷物である。伝本が数系統あって、各々欠落や写し間違いがあって、相互参照しつつ校訂を重ねてからようやく現代語に翻訳して…などの手間がいらないのは大きなアドバンテージである。権利関係など難しい問題はあるにせよ、ぜひ後世に伝えられてほしい”史料”である。

Everybody,
Read "Kurashi-no-techo" again,
Be ambitious!




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