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「光る君へ」序盤雑感(第6回まで)

面白い!
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大河ドラマ「光る君へ」は2月11日時点で第6回まで放送された。回を重ねるたび面白くなる。これはマニアにはたまらないだろう。私も『枕草子』に目を通したり、SNSやこのnoteで綴られる意見に気づきを得たり、お腹を抱えて笑ったり、「#光る君絵」タグの作品に感心したりと、日々勉強している。

このドラマは48~49回程度作られるだろうか。それを思えばまだ序盤。あくまで”にわか”の視点だが、ここまで見て気づいたポイントを徒然なるままに書き連ねてみたい。


サロン土御門

現段階で最も華やかな場面は、左大臣源雅信宅(土御門殿)で開かれる姫たちの語らい兼勉強会であろう。雅信の娘・倫子(ともこ)をリーダーとして、女房赤染衛門が先生格。茅子、肇子、しをり、そして本作の主人公・まひろがメンバーである。まひろは一応父・藤原為時の意を受けて左大臣家の様子を観察する"間者”だが、自ら学んだ知識を思い切り披露できる場として結構楽しんでいる様子。しかし、他の姫君との間には身分差もあいまって、微妙な空気感が漂う。肇子は五節の舞の後「お顔の四角い、富のあるお方」に見初められて離脱する。第5回・第6回では左大臣家の飼い猫「小麻呂」の可愛らしさが人気を集めた。

倫子姫の性格については「天真爛漫」「裏があるのでは?」と意見が分かれている。倫子は、参加メンバーの発言が暴走しかけると的確なタイミングでたしなめるが、場をコントロールするために持ち出すのは常に”父の威光”である。

まひろが『竹取物語』について意見を求められ、身分制度の欠陥にまで言及してしまう

→「私の父は左大臣で高貴な身分ということをお忘れかしら?」

五節の舞の後、茅子がまひろの身分の低さをあげつらう

→「まひろさんを五節の舞姫に出したのは私の父ですよ」

五節の舞姫役をまひろに押し付けたのは腹黒い、という意見も見かけたが、もともとこのアイデアを出した人は母・穆子(むつこ)である。穆子は為時家と遠縁ということから思いつき、倫子は疑うことなくそれに乗っかっている。すなわち現時点で倫子は、自分をとても可愛がってくれる両親の価値観が目に見える世界の全て、として描かれている。ここは押さえておきたいポイントである。

紫式部と倫子の出会いは、紫式部が中宮彰子づき女房として宮中に上がってからとされているが、本作では若い頃から気心知れた仲としている。あくまで私個人の予想だが、まひろに”想い人”藤原道長のお側にいる道を完全に閉ざしてしまうための仕掛けではないだろうか。道長が他家の姫の婿になればその妾になり、藤原道綱母のような人生を歩む道もまだ考えられるが、嫡妻が他ならぬ倫子ではそれも無理、と諦めさせる展開になりそうである。倫子が温かな両親の元から巣立っていく時が、すなわちまひろの愛の終わりの時となるだろう。私は古い人間ゆえ、書いていて阿久悠氏の名作「思秋期」のメロディーが頭をよぎる。

サロン土御門は「お勉強ができる子のふるまい方」を学ぶ場でもある。「勉強ができる」≠「頭がよい」≠「心地よい人づきあいができる」という真実に気づくまで、私は散々苦労を重ねてきた。もちろん1000年に一度の天才の足元に及ぶべくもないが、もっと早くこの作品に出会いたかったと思う。

母親格差

道長の父・藤原兼家には5人の男子がいたと伝えられている。嫡妻の子3人、妾の子2人である。これまでは特に差をつけず語られていたようだが、本作では嫡妻の子をいわば”正式な息子”として、「三兄弟」を強調させている。道長の幼名を”三郎”としたことからして、脚本家の意図がうかがえる。

妾の子である道綱は、父から後継者になることはないと釘を刺される立場。本人は「そんな柄じゃない、元から御免」と言わんばかりにあっけらかんとしているので、まだ救いがある。

単に貴族内の格差のみならず、同じ家の中でも細かい格差があり、それが次の世代に伝わっていくという描き方には何らかの思いが隠されているのだろうか。今のところは「重い身分にがんじがらめの帝、右大臣家の面々」と「まだ身軽な道長、飄々としている道綱、貧しくとも文学の道以外は考えられない為時」というわかりやすい構図に留まっているが。

第6回のサロン土御門では、道綱母が詠んだ

なげきつつひとり寝る夜のあくる間は
いかに久しきものとかは知る

の和歌について、まひろが「身分の低い私が、身分の高い殿御に愛され、煩悩の限り激しく生きたのでございますという自慢話かも?」という見解を述べ、赤染衛門が高く評価しつつ、一般的な解釈を添える場面があった。これもまた、まひろが道長の妾になって生きることを一度は考えてみる伏線につながるのだろうか。

散楽が与える創作ツール

本作では「散楽」の一座が登場する。当時散楽という芸能は存在していたが、政治風刺劇までやっていたかどうかはわからないという。

オリジナルキャラクターの”直秀”はすがすがしい好男子。大河ドラマにつきもののオリジナルキャラクターはその塩梅が難しいが、本作ではピタリとはまっている。まひろの告白を聞いて肩に手をかけながらもその先に進まず、兄・道兼を懲らしめるほうを優先して去っていく道長を見た際の「帰るのかよ」には大いに笑わせてもらった。

直秀は、円融帝に入内した藤原詮子(道長の姉)が皇子を生みながらも帝の寵愛を失う姿を風刺している。道長はそれを見てゲラゲラ笑う。自分の姉をおちょくっていると気がついただろうか。

「うちの姉上、おっかないのを知らないな。姉上に見つかったら即しょっぴかれるぞ。」

とでも思っていそう。

一方、直秀はどこで「あのお客の正体は右大臣家の若君」と気づいたのだろう。「助けておくれ、弟よ~!」のセリフを言いながら道長に近づいていくが、あらかじめ知っていなければそのような仕草は取らないだろう。

私は『源氏物語』をきちんと読んでいないが、愛読者の見立てによれば第1回から随所に、『源氏物語』に綴られているエピソードになぞらえた場面が作られているという。ということは本作において、『源氏物語』は紫式部が幼い頃から実際に体験してきたことが骨格になっていると位置づけられるのだろう。風刺劇を行う散楽一座を登場させたことは、作家が物語を紡ぐ上で必要となる技能を授けるという意図がうかがえる。

結局は父と同じ

詮子が出る場面は大概暗く重いオーラが漂う。円融帝に誤解されたまま別れなければならなかった無念はいかほどだろう。生涯ただひとり愛したお上からのあの仕打ち、並の人ならば心が壊れてしまうだろう。

父・兼家に対して、憎らしいというよりも心底情けないと思っている詮子だが、第6回では源雅信を局に呼びつけ、「父とは違う力が欲しい」と一方的に話した挙句「聞いてしまったからには後戻りできませんよ」と半ば恫喝していた。その姿は父親にそっくり。本人も自覚している。詮子はその場で倫子のスペックを聞き出して、何も知らずにやってきた道長に「左大臣家に婿入りしなさい」とにこやかに命じる。どんなに憎んでも、結局は父親から自由になれない哀しさがにじみ出る。この場面もまた、道長もいずれは同じ道を歩まざるを得なくなる伏線のように見受けられた。

「#光る君絵」タグでは、雅信が右大臣家親子の人使いの荒さを嘆きつつ小麻呂を抱きしめる絵を投稿した人がいた。皆さん本当に上手である。

恋しき人の

第5回と第6回の終盤は、まひろと道長が”青春”に別れを告げる場面であった。まひろは道長に、母が死んだ経緯を涙ながらに話し、それは自分のせいでもあったと、悔やんでも悔やみ切れない思いを打ち明ける。

道長は、漢詩の会に顔を出したらその場になぜかまひろがいて驚き、白居易の菊花の詩を引用する。それは事実上、まひろへのラブレターでもある。

さらにその後

ちはやぶる神の斎垣(いがき)も越えぬべし
恋しき人のみまく欲しさに

と詠んだ和歌をまひろに贈る。(伊勢物語の「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし 大宮人のみまく欲しさに」の本歌取りとのこと。)

SNSでは「もう、歴史を改変していいからそのまま付き合っちゃえ!」と大盛り上がりだったが、道長から見れば「ここしかない」タイミングだったのだろう。そのまま流れに任せていたら、姉に言われるまま、まだ会ってもいない左大臣家姫君の婿になってしまう。そうなる前に、色々と背負わされる前に、まひろとの関係を固めておきたいという一心で、苦手で面倒な和歌を詠み、書字にコンプレックスがあっても筆を取った。それだけの覚悟があったのだろう。

対してまひろは、自分の芯まで理解してもらえる相手は道長以外に考えられない…はずなのに、いざ具体的にプロポーズという話になると途端に思い悩んでしまう。身分差もさることながら、自分が幸せになっては母に申し訳ないのではないか、母を手にかけた家の身内になることは母への裏切りになるのではないかと、深層心理のレベルで躊躇している。漢詩の会でも、道長が提出した白居易作菊花の詩にボーッと心奪われ、次にオリジナルの詩を吟じた藤原公任の作品に対する評を求められて我に返り、「唐の白楽天のような詠いぶりでございました」と咄嗟に”ずれた”返事をしてしまう。

柄本さんは「道長は漢詩の会に出て、初めて政治家として目覚めた」と話している。それも勘案すると、この2つのエピソードは序盤における重要なターニングポイントと位置づけられる。二人にとっての、青春との訣別。

幼いまひろの拙い空想につきあってくれた三郎。
散楽見物デートを重ねた二人。
そんな楽しかった日々は、もう戻ってこない。
やはり「思秋期」を思い起こす話である。

まひろは、何とか道長への想いを断とうとする。サロン土御門への参加に関しても、道長がいる右大臣家の対抗勢力である左大臣家とのパイプを確保することに、改めて自らの使命を見い出そうとする。断腸の思いで「振った」つもりだが、それでもなぜか行く先々で道長と出会ってしまう…。

この先二人は、大人どうしとして改めて関係を構築していくのだろう。たとえそれがギラギラの権力志向であっても。

父親たちが歩んだ道

本作では「藤原」姓の登場人物が多いので、ややこしくなるのではないかという懸念が放送開始前からささやかれていたが、私はすぐに慣れた。

それよりも名前の漢字の読み方が難しい。懐仁親王(やすひとしんのう)、藤原義懐(ふじわらのよしちか)と、同じ字で異なる読み方をする例もある。画面でも読みがなをつけてくれるとありがたい。

第5回では花山天皇の施政方針や藤原義懐の専横を憂う藤原頼忠・藤原兼家・源雅信の”三巨頭”が顔を合わせる場面が描かれたが、この父親世代が歩んできた道筋も本作の背景になっている。源高明など本作には登場しない人物も含めて、かつての大河ドラマのようにアバンで解説していただけるとありがたい。散楽一座は最初、源高明追放をネタにしていたが、いきなり「コウメイ」と言われてもすぐには理解できない。

藤原公任が頼忠の子、藤原斉信の妹・忯子(よしこ)が花山天皇に入内など、すぐにピンと来ない親族関係も頻出する。公式サイトをよく見ればわかるとはいえ、「ファミリーヒストリー」のように随時簡単な系図をつけてもらえれば、より見やすくなるだろう。

心配は「定子さま」

「光る君へ」は、これ以上ないほど鮮やかで細やかな風呂敷の広げ方を視聴者に見せてくれた。紫式部の前半生はほとんどわかっていないし、検証のしようもないから、脚本家やスタッフが存分に腕をふるえるパートである。

しかしこれからは伝えられている史実とすり合わせながら、風呂敷を畳む時を見越しつつ、話を展開していかなければならない。

その観点で言えば、当面一番の懸念は”藤原定子”である。子役は既に出演しているが、大人の役はおそらく前半最後の主要人物として、満を持す形での登場となるだろう。

清少納言が会った途端にひとめ惚れしたという、手の先までの美しさと気品。和歌のみならず漢詩にも詳しい、当時最強レベルの教養。女房仲間内でもめ事が起こらないよう心配りを欠かさない、真の優しさ。お高く止まらず、時折見せる茶目っ気。生涯貫いた、一条帝との純粋で崇高な愛情。

『枕草子』は言うまでもなく、『源氏物語』のキャラクター造形やプロットにも少なからず影響を与えた、言い換えれば千年先まで残り、世界に誇る平安二大文学誕生の原動力となった”伝説のお后”である。

後半登場するであろう彰子の人生は、現代人でも割とイメージしやすいだろう。対して定子は、現代人にはなかなか手の届かない人。どんな感じに描かれるのか、定子さまでコケてしまわないだろうかと、今から心配を巡らせている。

”スピンオフ枕草子”リクエスト

第6回で登場したファーストサマーウイカさんの清少納言は、先に小迎裕美子先生のマンガを読んで予備知識を蓄えていたため、ひと目でこれははまり役!と思った。「ひたいが出ていてちぢれ毛」も再現されている。その面でも定子役にはプレッシャーがかかるだろう。一方ウイカ少納言は『枕草子』に書かれている、初出仕の時大納言藤原伊周(道隆の嫡男)がすぐ目の前に来て、緊張のあまり顔を隠そうとしたら扇を取り上げられたというエピソードとは対照的なキャラクターとして描かれている。もう道隆と対面してしまったし。

まひろから見れば、どこか”暖簾に腕押し”感が漂うサロン土御門の人たちとは全く違う、自分とインテリジェンスのレベルが似通った、近い身分の人がいる!という驚きがあったのではないか。道長が現れるとすぐそちらに気を取られてしまったが。

ファンの間で「F4」と盛り上がっている若手貴族4人衆の中で、最も俗物的に描かれている藤原斉信がさっそく目をつけて「あの鼻をへし折ってやりたい」。清少納言と藤原斉信のくされ縁、ここに始まる。小迎先生に「やなヤツだよね、斉信」と言わしめた「草の庵を誰かたずねむ」のエピソードも作ってくれるだろうか。

それに限らず、せっかくの機会だから「スピンオフ枕草子」を作ってもらえたらうれしい。今撮影しておけば後々資料映像としても使えるだろう。

リクエストするならば、上記の”草の庵”に加えて

・香炉峰の雪
・雪山の賭け
・藤原行成との和歌応酬(世に逢坂の関はゆるさじ)
・”細殿に便なき人なむ”

<女房たちが清少納言についてあまりよくない噂をしていたところ、定子が傘の絵に「山の端明けし朝(あした)より」と添えた紙を送ってきたので、清少納言は雨がたくさん降る絵に「ならぬ名の立ちにけるかな」と添えて、事実無根の濡れ衣ですよと答えた。二枚の絵をあわせると

三笠山山の端明けし朝より 雨ならぬ名の立ちにけるかな

の一首となる。>

などが面白そう。追加キャスティングが必要になるが、淑景舎(定子の妹)入内日の仲睦まじい関白一家の様子も華やかな絵になるだろう。

『枕草子』には”皮肉”を扱う段もある。

・正月七日の祝いの若菜で散らかっているところに、子供たちが見知らぬ草を持ってきた。「何という草なの?」と聞くと「耳無草」と答える。「なるほど、聞いても知らん顔しているはずね。」と笑ったが、小さい子には通じないだろう。
(本心は「もうっ、ちゃんと片づけてよ!」)

・女房たちが、衣類の名称についてあれがおかしい、これが変と言って騒いでいるので
「うるさい!私はもうやめるわ、あんたたちも寝なさい!」
と一喝して強制的に場をしめたところ、夜居の僧に
「せっかくの機会だから、一晩中お話されてはいかがかな。」と、立腹した様子で言われた。
(僧の本心は「毎晩隣でくだらない話を聞かされる身にもなってくださいな。」)

そういった「平安貴族の日常」を映像にしてもらえたら、なお面白い。





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