猫のいた街

 1.
 曰く。旅は、メディアなどが作り出したイメージを辿る移動行程に過ぎない。友人の専攻する都市社会学にそのような考え方があると聞いたが、私、荻原はじめが普段から感じていることも概ね同じである。だが、ここは国文学専攻所属の人間らしく、萩原朔太郎の『猫町』を引き合いに出しながら、話の前振りとするとしよう。
 かの詩人は、旅を繰り返す度に、そこに人間の生活に変わらない通底するものを見出してしまい、旅が『同一空間における同一事物の移動』であるとした上で『旅への誘いが、次第に私の空想から消えて行った』などと評することとなった。一方で彼は、秘密の裏側などというロマンチシズムに溢れた単語を使いながら、同一の現象・空間でも物を見る立ち位置が異なれば違ったものが見えるという考え方に至った。そうして彼は、夢か現か、二足歩行する猫で溢れた『猫町』に辿り着くのである。
 幻想風の小説でもあるまいし、眉唾だ、だなんて言われればそれまでの話であろう。実際に私もそのように思っていた時期があったことは確かだ。しかし、私はこの夏に類似したような出来事に出くわすこととなった。偶然にも、彼が表題としたのとある意味重なっているとも言える、ある『猫町』において。私は本来そのことについて語ることの出来る言葉を持たないが、自身の体験したことをただ言葉にするしか無い、と他ならぬ朔太郎自身が言ったのだから、私もその言に従うこととしよう。

 2.
『海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい――』
 車窓を流し見ながら、その言葉をなぞる。たしか、林芙美子の『放浪記』に記された一節だっただろうか。幾度となく見た言葉は、思いのほかすらすらと言葉になった。JR尾道駅を降りた商店街の初めにひっそりと建っている、林芙美子の像と共に刻まれていた言葉。夏目漱石の『こころ』のある一節が著明であるがゆえにその本を読んだ訳でもない人に引用されるのと同じように、私もまた、林芙美子の『放浪記』も、あるいは林芙美子自身も知らない。ただ、彼女がそう言った時に感じた気持ちは何となくだが分かるような気がする。なにせ私自身、尾道を訪ねるのはちょうど五年ぶりになるのだから。
 駅を降りると、「尾道駅が生まれ変わります!」と太文字で書かれたやけに青いポスターが目に入って来て、同時に、どろりとした重化学用品の饐えた臭いが広がる。どうやら今、駅は改装工事をしているようだ。思わず手で臭いを分散させようとするが、それをかき消すようにして潮風が鼻腔をくすぐり、ふわり、と私の黒色のフレアスカートを浮き上がらせる。関東にはない、瀬戸内特有のツンと刺すような潮の匂い。そして、ホームを抜けた先に見える、五年前もまた同じようにあったはずの、港湾と駅前の商店街。それだけで、ああ、この街は変わって居ないんだな、と感じた。表面の物事が変わっても、それを彩る本質は変わらない。変えることなんて出来はしない。そんなことを考え出すと、ポスターの「生まれ変わる」なんて言葉がどこかちぐはぐに思えて、笑ってしまいそうになった。
 変わらない変わらない、なんて言っていても、変わったと感じる物があるのもまた確かだ。それを一つ挙げるとすれば、天候であろうか。この街とは直接は関係ないだろう、なんて言われるかもしれないが、外的な環境とイメージは存外に関係するものだ。じりじりと肌を苛むような熱気と茹だるような暑さ。三十五度なんて聞くとそこまででも無いようにも思えるけど、それが湿気を含んだものだとどうしようもない。私が今着ている黒色のワンショルダーのトップスもスカートも、紫外線は吸収してくれても温度までは吸収してくれない。平成最後の夏だからと言って、天候までも特別にする必要はないだろうに。仕方がないので、彼といつも歩いていた海辺のルートを避けて、商店街を抜けていくことに決めた。
 古めかしい遊具屋、一口お好み焼の店、いかめしい美術店、銭湯を改修したカフェ。薄らとしか記憶に残っていなかったが、どうやら相変わらず商店街の町並みは変わっていないようだ。そうであるならば、と商店街の半ばに差し掛かった頃合に脇の道に入る。薄暗く細い道にそぐわないピンクの外装が嫌が応でも目に付く。窓に何故か大きなソフトクリームの模型をべったりと貼り付けたこの店は、その外見に反して、実のところクレープ屋である。私はいつもラムレーズンクリームで、彼はたしか、抹茶あずきスペシャルだった気がする。懐かしくなってしまって、私は思わずラムレーズンクリームを注文してしまった。
 結論から先に述べると、今の私にそれは少し重いと感じられるものだった。『都心の大学生はパンケーキばっかり食べるんでしょ~インスタ映えってヤツ~?』だなんて地元の友人が茶化して言ってくることもあったけど、それはとんでもない勘違いだ。無尽蔵に甘いものを食べられるのは、中高生の特権だと言えるだろう。あの店でクレープを食べていた頃は中学生か……私も若かったな……なんて遥かな過去に思いを馳せてしまう。大学一年生を越えるとすぐに老害扱いされる、なんて茶化されることもあるけど、大学二年になってしまった私もどうやら例外ではないようだ。甘ったるいだけではなくラムレーズンが舌を刺激して来て、お酒の成分なんてほとんど含まれていないようなものなのに、少し酔いが回ってしまったのではないかと思ったほどである。
 そんなこんなでクレープ一つと格闘していると、いつの間にか商店街を抜けて大きな十字路に出ていた。ここを右に曲がれば、昔よく行っていた中華そばの名店に辿り着くが、今回の用事はそこではない。十字路を左に曲がる。蛍光色に象られた、はっさくジュースと書かれた看板のある土産屋を通り過ぎて、交差点手前の日陰で信号が青に変わるのを待つ。焦れる熱が、陽炎となって視界を燻らせる。信号の先、短いトンネル越しに見えるのは、ロープウェイと太い注連縄が張り巡らされた鳥居。そのロープウェイを越えた先に見えるのが、今回の旅の目的地である千光寺と、その霊園であった。

 尾道に行こう、と思えたのは薄情にも彼が死んでから五年が経った頃だった。皐月朧。中学生の時に付き合っていた彼。少なくとも、世間一般が想定するようなカップル以上には仲睦まじかった、と言っても過言ではなかったように思う。映画好きだった彼は、ロケで使われた場所を巡るのもまた好きだったようで、家から近かったということもあって、ある映画の舞台にもなった尾道へ二人でよくデートに来ていた。あそこがあのシーンに使われた場所で、なんて彼は繰り返し一生懸命説明してくれて、私はそんな彼の顔を見るのが好きで、精一杯相槌を打っていた。
 そんな関係が壊れたのが、中学三年の夏だった。彼は私とのデートが終わって別れた後に、余所見運転のトラックに轢かれて、死んでしまった。慌てて病院に駆けつけた時には、もう彼は息を引き取っていた。呆然とする私に、彼の母親は、貴方のせいでうちの朧は……!と言って胸ぐらを掴んで激しく揺さぶりながら泣き崩れた。私のせい。私のせい。それは確かに見方によっては一面以上の真実で、だけど、私にはどうすることも出来ないものだった。だけど鬼気迫る彼女に呑まれてしまって、私は何も言い返すことは出来なかった。そして、どうしようもない喪失感と圧迫感の中で、私が選んだのは、よりにもよって逃げだった。私は地元から離れた高校へと進み、そして都心の大学へと入って、勉強やサークルに打ち込んだ。大切にしてきたものを失って、そしてそれが私のせいだということになって。私はもう、全てから逃げることしか出来なかった。
 不義理なことをした、という自覚はあった。だけど向き合うには当時の私は弱すぎた。そして、私の抱えていた痛み自体は風化していっても、逃げてきた過去は途方もない程に積み上がりすぎて、それに向き合うための勇気もきっかけも失ってしまった。
 そろそろ向き合う時なのかもしれないな、と思えたのは、大学一年生の時に渡された彼の母親からの手紙だった。正確に言うと、高校二年生の時に実家に届いたもので、当時は状況的に時期尚早だったものの、時間が大分経った今ならばもう受け入れることが出来るだろう、と判断した私の母が渡してきたものだった。あの頃は冷静になれず申し訳ないことをした、貴方を責めてもどうしようも無かったのに、お墓は彼が好きだった尾道の千光寺の近くの霊園に建てた、もうすぐ三回忌なのでもし都合がよければお参りに来てくれると息子も喜ぶだろう、とのことだった。何を今更、と思う気持ちがないでも無かったが、彼に対する後ろめたさがあったのもまた事実だった。それでも一年ほど迷いに迷って、こうして、大学二年生の、帰省の時期に合わせて尾道に来ることに決めたのだった。

 信号が青に変わり、信号待ちをしていた人が短いトンネルを抜け、千光寺の方向へ歩き出す。彼の霊園は千光寺のある山の中腹にあるとのことであったので、幾らかの人がロープウェイに吸い込まれていく中で、私は隣の参道に繋がる路地へと向かう。少し日が傾いて来たからかうっすらとした日差しを受けた、赤錆混じりの青銅色の鍍金屋根をした山門を抜けて、少し翳った傾斜の坂道を歩く。尾道が『坂の街』だなんて言われる所以だ。
 隣接した幾つかのカフェやミュージアムを通り過ぎる。『魔女の庭園』なんて怪しげな看板が下げられた草木に包まれた場所を抜ける。あと階段の折り返しを二つほど行けば、たしか千光寺のほとりへとたどり着くはずだ。霊園の位置を再確認するために、地図アプリを起動して確認する。人が二人すれ違うのもやっとなくらいに狭い参道であるために、降りてくる人が迷惑そうに私を見てくる。霊園の位置は思ったよりも入り組んだ位置にあるらしく、検索に手間取ってしまい、これ以上の迷惑を掛けるわけにもいかず、すみません、と頭を下げながら脇道に逸れる。慌てすぎたせいか、ガサガサと隣の草むらを揺らしてしまう。
「んなぁ?」
 ひどく間延びした鳴き声。足元をじっくりと見てみると、そこには一匹の猫がいた。黒をベースにした、薄い白の縞模様。少し丸みを帯びた体型も可愛げがあると言ってもいいだろう。昔のこととは言え、尾道に来た時に、何度か彼と一緒に猫と戯れた私にとっても、なかなか好みの猫であると言わざるを得ない。つい、私はどうしてここに来て、今何をしないといけないのかも忘れてじっくりと眺めてしまう。
 その猫は、眠そうな眼をして大きな欠伸をしていたが、突然人が飛び出してきて驚いたのか、くりくりした目を大きく見開いている。
「んな、んなぁ!?」
 それにしても、こんなに慌てた猫を見るのは初めてな気がする。彼と来た時もここまで反応してくる猫はいなかったはずだ、というのも尾道のような観光地の猫は人馴れしているのが常なはずだから。猫は足に顔を擦りつけながら、尻尾を立てて大きく振っている。これはたしか、機嫌がいいときかご飯が食べたいとき、だった気がする。たしかこういうところに猫は餌がきちんと与えられて毛並みも整えられているはずだけど、それでもまだ餌が足りていないんだろうか。
 そうして、猫は私の足の周りをぐるぐると回っていたが、突然ぴたり、とその動きを止めて、おもむろに脇の藪道の方へと歩き出した。付いてきて欲しいとでも言うように、此方の方を振り返りながら。状況は飲み込めなかったが、好奇心と興味の方が優った。たしか今はまだ四時を少し過ぎたくらいなのだから、少しくらい寄り道しても構わないだろう、と思い私はその猫に付いて行くことにした。

 蔦混じりの鬱蒼と茂る道を抜ける。かれこれもう三十分ほど歩いているだろうか。木々から漏れ込む光も、そろそろ仄かな茜色を帯び始めている。それにしても、尾道に来た回数は軽く二ケタは超えているはずだけど、こんな道に見覚えはない。このままだと引き返して帰ることが出来るのかどうかも怪しい。だけどこの状況、この前金曜ロードショーでやっていたジブリ映画みたいだな、なんて思っていると、
『……久しぶりだね。会いたかったよ』
 何処からか声が聞こえてきた。低く透き通るような、そして同時に、何処かで聞いたことのあるような青年の声。思わず後ろを振り向いたものの、そこには誰もいない。
『違うよ、こっちこっち』
 今度は確かに後ろから声が聞こえてきたので、そちらを振り返る。そこにはいつの間にか歩くのをやめて、此方を向いていた先程の猫がいるだけだった。声はたしかにこっちから聞こえてきたはずだけど……。すると、猫は少し伸びをしながら、むにゃむにゃと口を開いて
『僕は大分変わっちゃったけど、君は相変わらず変わらないね、はじめちゃん』
 はっきりと、私の名前を口にした。
『見知らぬ人、ああいや今は猫か、にほいほいとついていっちゃダメだよ?』
 呆れているのがはっきりと分かるような声色。そして頬のあたりを肉球でこしこし、と擦る。この話し方の感じ、この癖は間違いなく――。
「朧くん、なの?」
『ん……僕の記憶が正しければ、ってことになるけど』
 そう言って頬をひくひく、と引き攣らせるようにして、恐らくだけど笑った、のだろう。
「どう、なってるの? なんで朧くんがここにいるの? 本当に朧くんなの?」
『話すと長くなるんだけど、うん、全部話さないと伝えたいことも伝えられないだろうし、僕が知ってることを話したいと思うから、とりあえずそこに座りなよ』
 そう言って、木の切り株を指し示した。少し開けた場所ではあるけど、他に腰掛ける所も無さそうだ。そのまま地面に腰を下ろすのも躊躇われたので、切り株へと腰を下ろす。それをちらりと見ると、彼は私に向かって滔々とこれまでの話を語りだした。

 曰く。トラックに撥ねられた後二年ほど幽霊のような状態になって彷徨っていたこと。私や彼の母親のことをその状態で見ているしかできなかったこと。そうして、二年ほどが経ったある日、低く轟き響く呪文のような音が聞こえてきて気を失ったこと。そうして目覚めると、見覚えのある街で、見覚えのない姿――今私が見ている、猫の姿になっていたこと。そうして戸惑っていると、『ほうほう、珍しい。ここにいる猫の大半は畜生道からの生まれ変わりなんだが、君は人間道からの生まれ変わりかね』なんてよく分からないことを言う、数珠を幾重にも腕に巻いて真紅のベレー帽を深く被った胡散臭い髭面のおじさんに出会ったこと。そうして、そのおじさんの口から、分かるようで分からないような込み入った理論が説明された、とのことであった。
 おじさんによると『ペットをはじめとして、生前に自身が縁を結んでしまった生物が次の生まれ変わり先になる可能性は高いんだよねぇ』とのことであるらしい。そうして『犬とか猫とかをペットにして捨てる人間が増えてて保健所で沢山死んでるって聞くけど、ははは、その理論に当てはめて言うなら次は飼い主だった彼らが生まれ変わってその捨てられる犬猫になるかもしれないって考えると面白いよね――ああ、君はそうならなくて良かったね?』なんて、にやにやと意地悪な顔をしながら続けたという。
 猫に話しかけてる貴方も傍から見ると随分な変人ですね、なんて皮肉を思ったと言うが、『おおっと私が普段から犬猫に話しかける不審者だと思われたら心外だねぇ』などと、猫にあるのどうかはともかく、まるで表情を読みとったようにそう言ったという。
 おじさん曰く。尾道はかなり特殊な場所で、ここであるならば霊障を持った人間であるならば多少不思議なことが起こりうるもので、ピントと条件さえ合えば、こうして動物の前世を読み取ったり、言語が異なるはずなのに意思疎通が取れたりする可能性がある、とのことであった。『異なる次元の人を呼び寄せることの出来る力のある海に接していて、生と死の境界を見立てることの出来る坂があって。ここにたどり着くには一度トンネルか鉄橋を抜けないといけない。ほら、たしかジブリ映画でもそういうのがあったはずだろう? そして境界をふらふらと渡り歩ける使い魔である猫もいる。とどめに、そこにあるのがお寺なんていう象徴的な刻印と来た。これはもう境界の境目を曖昧にするお酒飲んでたり黄昏時であったりしちゃうともう何があっても可笑しくはないね。こうして君と僕が交流してるみたいに、ね』とのことであったらしい。

 分かるようで分からない、長々とした説明に面食らってしまい、相槌などを打つことなく沈黙してしまう。彼はそんなこちらのことを察したのか、
『まぁ要は、こうしてはじめちゃんとまた会えたことより重要なことじゃないだろうね』
 なんてことを言って、経緯の話を締めくくりながら、
『これでやっと言いたかったことを言えるね』
 と言って一息ついた。少し引き締まった顔に、どきりとしてしまう。
「い、言いたいことって?」
『うん』
 彼は少し躊躇ったようにしながら、頬を肉球で撫でて、口を開き、
『君に辛い思いをさせて、本当に申し訳なかった』
 そうして体を深く、前へと前傾させた。

 私には何故自分が謝られているのかが分からなかった。むしろあの日、彼を捨て去るように逃げてしまった、此方が謝るべきであろうに。
『あの日、君を残して突然死んじゃったこと。そして、母さんがはじめちゃんに酷いことを言っちゃったこと。もう済んだことかもしれないけど、心残りで、謝っておきたくて』
「それは……朧くんが謝ることじゃないし、むしろ私が謝らないといけないことで……! 私も、あの時から貴方から逃げてしまって、ごめんなさい」
『伝えたい時に物事を伝えられないこと。それは言う人に取っても、言われる人にとってもダメなことなんだって、事故の後に、朔ちゃんの周りを漂っていた時に思ったんだ』
「でも……それはそうだけど……」
 なおも続けようとする私に対して、少し遮るようにして、
『……じゃあ、おあいこということにしておこうか。こんな湿っぽい話はさっさと済ませるべきだろうしね』
 悲しげな表情をパッと振り払うようにして、私が昔すごく好きだったはにかみ顔を見せながら、
『それよりも、せっかくこうして映画みたいにまた逢うことが出来たんだし、明るい話を――そうだな、たとえば今のはじめちゃんのことを聞きたいな』
 なんてことを言った。

 それから、時間が続く限りたわいも無い話をした。彼からは、尾道をこれまで訪ねた人達のこと。猫仲間たちとの交流についてのこと。そして街の高台から見た景色は変わらずに綺麗であること。私からは、彼が行くことの出来なかった高校と大学のこと。あれから少しだけ見た、いくつかの映画のこと。東京にも、尾道と同じくらい綺麗な風景で溢れていること。私の拙い言葉では表現出来なかった気がする訳であるが、それでも彼はにこやかに相槌を打って聞いてくれた。
 まるで、何よりも楽しかったあの時が蘇ったようで、私は時間を忘れて、彼に甘えながらしゃべり尽くした。この時間がずっと続けばいいのに、などと思う一方で、そんな時間が無限に続くはずもなく、彼は話の途中で突然目を瞑ると、短くにゃ、と鳴いた。
「朧くん……?」
『そろそろ時間みたいだね。この猫生で一番楽しかったと思える時間だったよ』
 気づけば、眩しかった西日もかなり弱まって来てもうすぐ日も落ちようとしている。まだ話したいことがある。この穏やかな時間が終わって欲しくない。『待ってよ』なんて思わず声を上げようとした、その時、差し込んだ残光がぎらり、と最後の瞬きを見せて、私はくらりと眩暈がした。三半規管が少しぐらつくような感覚があって、そこには、もういくら待っても、薄暗く翳った草木に溶け込んで、んなぁとしか鳴かない黒猫がいるだけだった。

 そこからの話はここで詳しく記述する必要も、そしてまた需要というものも無いだろう。私は少しぼんやりとしながら、彼の母親に伝えられた霊園に趣いてお参りをしたあと、暗くなった足元をスマホの明かりで照らしながら山を下りて、そして帰路へと就いた。

 3.
 私の物語は此処で終わる。猫に化かされたと言えばそれまでのことであるし、もしかすると、心の何処かで救われたがっていた自分が作り出した陽炎のようなものだったのかもしれない。あるいは、文藝サークルの一員としての私が作り出した、病的な錯覚の産物であって、妄想の幻影であるのかもしれない。
 主題も伝えたいこともはっきりと自分でも分からないまま始めた私の与太話に、こんなに長々と付き合わせてしまったことをここに謝罪せねばならないだろう。今の私から確かに言えることがあるとするならば、偶然の条件が思いもよらない旅を導く可能性があること。そしてかつて好きで仕方が無かった、猫のいた街をいつの日か――おそらくまた黄昏時にでも――訪ねることになるだろうということだけである。

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