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急がば回れ、「書き写し」と「読書」に思うこと。《エッセイ》

 最近本の書き写しと読書を始めた。
 角田光代の「くまちゃん」を書き写しながら、山本文緒の「ばにらさま」を読む。書き写しには時間がかかるし、作家のタイプが違うほうが飽きが来なくていいと思っている。そんなことを考えながら読み書きしていたら、なんと基本中の基本である段落の付け方を間違えていることに気づいた。

 赤っ恥である。いくら心身ともに大変な時期にやっていたとはいえ、それはなかろう。正直なところ泣いた。恥ずかしくて泣いたのである。

 過去に関わってきた人たちの多くが、思うように書き出せない私に暴言を吐いた。馬鹿にしてとことん書けなくなるまで言いたい放題に罵声を浴びせた。息子の不登校のストレスで潰れかかっている私が求めていた安らぎはどこにもなくて、ただひどい疲弊感がつのるだけだった。

 いた場所が良くなかったのか、何がいけなかったのか未だにはっきりとしないほどの物凄いやられようだった。けれど、そんなヨレヨレの私が書き出す文章なんて読めたものではなかったと思うし、そりゃぁどつきまわしたくもなるわねと今になると思う。そんなわけで、粘っていた私もとうとう「書く」ということから逃げ出したのだった。

 過去に書いたものはすべて破棄してしまっているから自分では確かめようもないけれど、このnoteを始めたときの文章が「書けていなかった頃の私の文章」をそのままむき出しに引きずっているので読み返すと胸が痛い。今書いているこの文章だって不安でいっぱいだ。もう、基礎の基礎からやり直さないと恥の上塗りをしてしまうから国語の教科書買おうかな、とまで思ってしまうくらいだ。まぁでも今はこうしてコツコツとやっていること自体が楽しいので、そこまで張りつめて考えないようにしている。

 そして今でも思い出しては考えてしまうのだけれど、人間も動物だから弱っている個体の匂いがすると群れの中から排除しようとするのではないかと思うのだ。そういう本能的なところで私はフルボッコになっていた気がする。

 過去のことは済んだことなので忘れてしまうとして、これからどうやって文章力をつけていくかが大切だから、そういう意味でも「書き写し」と「読書」はセットで続けていきたいと思っている。穏やかな気持ちで机に向かえる今がとても幸せに思える。この時間を大切にしていきたい。

 「書き写し」は以前親切で面倒見のいい人が「やったらいいよ」と勧めてくれたことがあってわりと長いこと続けていたけれど、頭が回転していなかったものだから良さが分からずやめてしまった。けれど、今はよくわかる気がする。やっていて楽しい。これからずっと一日に三十分でもいいから続けていきたい。そして思いつくままnoteに文章を書き出していこうと思う。

 人間は乗り越えなければならない壁を超えようとするとき、全神経を集中させてその問題に取り組まないといけないことがある。それを乗り越えたら次に行けるし、乗り越えた経験が後で生きてくることもある。私のところは不登校の問題が解決するまでトータルで十四年ほどかかった。もう、息をするだけでいっぱいいっぱいの日々を送った。解決してもしっかりと立ち上がれるかどうか見届けるのに数年かかった。私が辛いというよりも折れてしまった本人が一番辛いのだろうから、私の調子なんてどうでもよかった。

 最近になってやっと何とか息がつけるような雰囲気になってきている。峠を越えた嬉しさと、全身の力が抜けたような呆けた感じでしばらく過ごした。そして、今は自分の楽しみを少し味わいたい気分になってきている。出来ないときに無理やり逃げ道にするようなやり方ではなく、純粋に楽しみたいと思えるようになってきている。

 けれど、この世界もどの世界も同じだけれど、上手い人は星の数ほどいるし、そういう人はそういう人同士で群れを成す。その中にずかずかと入っていけるほど頑丈でもないので、その片鱗でもいいので味わいながら楽しみたいと思っている。それに腕のいい人だって毎日しのぎを削っているのだから、私が基本中の基本の練習をするのは当然のことだと思うので、これから楽しんでやっていきたいと思っている。

 思うままをつらつらと書いたけれど、最初に比べて少しはマシになっているだろうか。これからは毎日が楽しみだ。凹むこともあるとは思うけれど、ずっと続けていけたら本物の楽しみに変わっていくような気がするのである。

 急がば回れ。ゆっくりと急ごう。

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