カウンセリングをやめようと思う
※新しく書けない代わりに、10月の下書きから1つ投稿します。
十分な数の視点と、言葉の処方箋を得た
学生相談、公的機関のカウンセリング、社会人になってから受けている心理面接、合わせて考えると随分長く伴走してもらってきた。細かな内容は忘れているけれど、日々困難に直面したり、不安定になったりすると、その時にふさわしい言葉や視点、風景などが切り取られた状態で現れて私を支えてくれることが多い。長い時間をかけて自分が変化してきたことを実感する。
一通りの悩みを相談してきた
月に一度、カウンセリングに向けて最近の困り事を棚卸しして紙に書く。最近思うのは、最近の悩みも過去に扱ったテーマと似たような話だということ。私には私の癖があるから、つまづきやすい局面があるのだろう。書いているうちに過去の経験やセッションが思い出され、うっすらと道筋が見えてくる。悩む前に思い出せないのが歯痒いけれど、この作業をすることで自己解決できる部分があると気づく。私は本質的には一通りの悩みを相談し終わっていて、2周目に入っているのかもしれない。
いざとなれば戻れるという安心感がある
いま通っているのは、臨床心理士を養成する大学院で市民向けに行われているカウンセリングだ。心理オフィスやクリニックと比べて格安で面接を受けられる。(そういう場所があると公的機関の先生が教えてくれた。ありがとう。)
学生相談や公的機関の面談は、もう対象者でないので受けることはできないが、いま通っている場所なら、また必要になれば再開することができる。戻れる場所がある安心感が、自力で歩いていくための勇気をくれる。
いまの私にはしんどいと言える力がある
最近の診察で、自分から「あまりよくないかもしれません」と言えた。記憶の限りでは初めての事だった。
今までは調子よくないと思っていても、そんなことで?と思われるのではと警戒してしまい、主治医や心理士さんには言えなかった。その代わりに、症状やエピソードを持ち出して察してもらおうとしていた。自分の内面的弱さに呆れられるのが怖かったし恥ずかしかった。
だけど、今は少し違う。
自分がどれだけヘタレだろうと、社会生活を送ることが困難になりそうなのであれば素直に助けを求めた方がいいと感じる。世の中には手を差しのべてくれる人がいるけれど、伝えなきゃ伝わらない。察してもらおうと不毛な努力をするのはやめて、自分で伝える。それが少しずつ出来るようになってきたと感じる。
いままでの面接で扱ってきたことを最後に振り返ってから終結したい。