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希望の街のおまじない屋 第四話

ミミル、おまじない屋になる

 次の日の朝、それはミミルにとってそれまで想像したことのないくらい、素敵な朝になりました。
 まだまどろんだ夢の中にいる頃から、焼き立てパンの何とも言えない香ばしい香りがしてきたのです。

 すぐに目を覚ましたミミルは、起き抜けにすーっと鼻で息を吸い込んでみました。
(ほんと、素敵。何かいいことありそう。まるでおまじないみたい)
 そのとき、ミミルに素敵な考えがやってきて、自然とにんまりしてしまったのです。

 階段を下りていくと、焼き立てパンの香りに全身が包み込まれていくのを感じました。
「トモリさん、おはようだわ」
 厨房でパンを焼いていたトモリさんは、思っていたよりもミミルが元気そうだったので、ちょっとびっくりしました。

「おはよう、ミミル。寝心地はどうだった?」
「とっても良かったわ」
「それは何より。さあ、パンを取り出そうかね」

 トモリさんは釜からパンを取り出しました。昨日の夜、ミミルが寝静まった後に仕込んでおいたのです。トモリさんが久しぶりに焼いた、人のためのパンでした。

「うわあ」
 こんがりときつね色に色づいたパンを見たら、ミミルはもう、ヨダレが垂れそうになりました。でも、そんなお行儀の悪いことを許すことはしませんでした。ミミルはレディなのです。

「先に顔を洗っておいで」
「うん」

 ミミルは洗面所に行って、しっかりと顔を洗いました。しっかり洗っても、焼き立てパンの香りは落ちたりしませんでした。

「うふふ、ステキ、ステキ。ステキ、ステキ」
「それもおまじないかい?」

 トモリさんに何気なく言われて、ミミルははっとしました。そんなつもりはなく、ほとんど無意識に呟いていたのですけど、そう言われてみるとこれはおまじないに持ってこいだと思いました。

 そこで一旦、二階に戻り、ポーチを取って来ました。食卓に腰掛けると、中からノートを出して、まだ使っていないページの一番先を開きました。そこにこう書き込んだのです。

『ステキ』

「さあ、いただきますをしよう」
「それよ、それ」
「どれだい?」
「ごはんがおいしくなるおまじない。『いただきます』だわ」

 今度はトモリさんがハッとしました。そう言われてみると、ここのところずっと「いただきます」をしていません。
 奥さんと別れてから、いつも一人で食事をしているうちに、自然といただきますをしなくなっていたのでした。

(そう言えばここのところ、食事がおいしいと思わなくなっていたな)とトモリさんは思いました。

 ミミルはおまじないノートに『いただきます』も書いておきました。
「いただきます」
「いただきます」

 それはミミルにとって、久しぶりの朝ごはんでした。久しぶりに安心して食べるごはんでもありました。
「ちゃんとミルクもあるよ。もちろんホットでね」
「ステキ、ステキ!」

 ミミルは一度すーっと香りを嗅ぐと、バターも付けずに大きな口を開けてパンを齧りました。
「おいしいわ」
「ウチの自慢の食パンだよ」
 と、トモリさんは言いました。

 レインボウ・ベーカリーの自慢は食パンでした。噛みごたえのしっかりした、余分なものの入っていない、本物のパンでした。

 この店の代々のご主人たちは、食べるものこそ人の心を育み、豊かにするという考えを持っていました。だから毎日口にするものは、ちゃんとした材料でちゃんとした腕を持った職人が、ちゃんと作ったちゃんとしたものでなければならないと考えていました。

 ちゃんとその意思を受け継いで、トモリさんも丹精込めて日々のパン作りをしてきたのでした。

 パンを食べ終わって、ミルクも全部飲んでから、ミミルはトモリさんに今朝の思い付きを話しました。

「ねえ、トモリさん」
「何だい?」
「私、昨日のやつ、いいこと考えたのよ」
「昨日の?」
 何だったけな、とトモリさんは思いました。

「レインボウ・ベーカリーのトモリさん。自分が何者か分かっているわ」
「あれがどうかしたかい?」
「私にもそういうのが必要だわ。他の人が見て、この子は何者なんだろうっていうのが、すぐに分かるものよ」
 昨日、ミミルはそんなことを言っていました。

「そんなもの、なくたって君は君だよ」
「大事だわ。だって、トモリさんはパン屋さんだから、私はトモリさんがパン屋さんだって分かったんだもの。私にもそういうのが必要なの、絶対」
 そうだろうかなと、トモリさんは思いました。

「それで私、おまじない屋になることにしたの。今朝、焼き立てパンの香りを嗅いだときにそう思ったのよ。ママがまじない屋なら、私はおまじない屋だわって。おまじない屋のミミル。いいと思わない?」

「おまじない屋のミミル、か」
 トモリさんは口に出して言って見ました。不思議としっくりくるような気がしました。

「いいんじゃないか」
「でしょう?だって私、いつもおまじないしてるんだもの。だから、トモリさんがパン屋さんをやるように、私はおまじない屋をやるのがいいと思うのだわ」

「それは、君のママがやっていたのと、同じようなこと?」
「ううん、私はママみたいには出来ないの。ママとは違うのよ。私には、ママみたいな力はないんだって。本当に、何の力もないの」

「君のママがそう言ったのかい?」
「そう。だから私にはママみたいなお店は無理なの。その代わり、ママがおまじないを教えてくれたの。だから、私はおまじない屋をやるのだわ。ねえ、トモリさん、私もここでおまじない屋を開いてもいいかしら?」

 そう言ったミミルの目はキラキラしていました。
 それはトモリさんに、昔の楽しかったときのことを思い出させました。

「ああ、いいよ。好きに使うといい」
「やったあ!」

 トモリさんはそのとき、子どものままごとみたいなものだと思っていたのです。ちょっと付き合ってやって、遊んであげようと思っていました。だから気安く請け負ったのです。
「ママが言っていたわ。あなたはこの世で一番強い力が使えるのよって」

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