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知るという一歩を

今朝は雨だった。窓を少し開けて寝ることにしているので、車の音と人の声で朝早くに目が覚めた。カーテンも窓も大きく開けて、カーペットに座ってカーテンのゆらゆらをぼーっと眺める時間が好きだ。1日の始まりは夜と比べれば幾分前向きで心が軽い。体のほうも、シャワーを浴びたり胃にあったかいものを入れたり、それだけで体の奥の奥から目覚めていくような感覚がある。

ぼんやりと、昨日の友人のLINEを思い出す。

これに涙出る私も偽善者なんかなあ思いつつも、考えないよりいいかなあ思って、やってみる🥺


“偽善者”とはなんだろうか、私が送った記事に対して友人はこんなことを言った。大好きな彼女が目を向ける先、それについて考えた先にある何かについて、私はすごく興味がある。

昨日の夕方、所属している大学のゼミ(研究室のようなもの)にリモートで参加した。4年生最後のゼミ、90分のトピックは卒業論文のテーマ発表である。京都の大学に在学しているが東京に住んでいるためなかなか参加できず、久しぶりに参加できることを楽しみにしていた。今日は3人のゼミ生が発表、聞いているゼミ生はコメントシートに記入し本人に渡すらしい。卒業論文のテーマは自由で、自分で好きに決めることができる。そのためみんなのテーマを見ているとアニメや漫画をお題にする人から環境問題まで本当にさまざまである。

そんな中、先ほど🥺の絵文字を真面目なLINE(このメッセージの前は真面目な会話をしている)に添えてきた彼女がテーマに挙げていたのは“ヤングケアラー”についてだった。

お恥ずかしながらこの問題について初めて知り、気になってGoogleで検索をかけた。見つけたのは下記の記事だった。よかったらリンクをタップして読んでから、ここに戻ってきてほしい。

この記事を読んだあと、私はこの文章を書いたヒオカさんを検索した。

このnoteを書いた方が、ヒオカさん。

社会の中で「そういうもんだからしょーがない」と通り過ぎていることに対し、通り過ぎず「しょーがないわけがない!」と声を上げる(または問題と認識する)人がいることによって、それは明るみに出る。通り過ぎた人たちは、まず知るところから始まる。ヒオカさんの「ないものにされる痛みや弱者に想像力を」という言葉はまさに、現在進行形で声をあげているスローガンだ。

大学の友達は言った、
なぜ、資格を取らないの?
なぜ、振り袖を借りないの?
なぜ、発展途上国に興味があるのに、留学やスタディツアーに行かないの?

東京に出てきて知り合った人は言った
なぜ、一人暮らししないの?
なぜ、自分をもっと大事にしないの?
なぜ、PCを買わないの?

世間はコロナで貧困に陥る人に言った
なぜ貯金していないの?
なぜ有事に備えておかないの?

悪気はないであろう、純粋無垢なその疑問を向けられるたび、言葉に詰まった。
悪気がないと分かっているからこそ、悲しくて、切なかった。

『私が"普通"と違った50のこと』(抜粋)

本当に、知るところから始まる。

当事者ではないし昨日の今日知ったことばかりだけれど、友人をきっかけに知ったからには誰かが私と同じように「まず“知る”きっかけ」を残したいと思い、このnoteを書いている。

ヤングケアラーについて卒業論文を書く友人に発表についてのコメントと共に一つ目の記事を送り、その感想が冒頭の一言だったのだが、

友よ。
あなたは絶対に偽善者なんかじゃない。
私の中の未知に対して想像力を与えるきっかけを、ありがとう。


最後に、善と偽善、無自覚のバイアスについて考えていた頃のツイート。

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この問いの答えは永遠にわからない、というか答えなんてないんだろうけど。考えることはやめず、でも深刻にはならず。世の中絶望するようなことで溢れているからといって、知ることから目を背けず。読むように日々を生きて、他者への想像力を膨らませて、自分なりの何かをこれからも残していきたいな。









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