
私が"普通"と違った50のこと〜貧困とは、選択肢が持てないということ〜
昨年の秋、私は病室にいた。
24歳といういい歳をした大人が、大声で泣きじゃくり、何人もの看護師さんがかわるがわる慰めに来る。「お願いです、退院させてください」そうせがむ私に、しまいには別の科のお医者さんまで私を説得に来た。
なぜ、私がそこまで退院したかったのか。
理由はただ一つ、お金がなかったからだ。入院費を払えば無一文になる。明日の見えない不安から、私は我も忘れて泣き続けた。
ー私は、実家が家賃1万5千円の県営住宅、父の年収が100万円という貧困家庭で育った。
父は精神障害に加え、複数回の事故による手術で身体が弱い。両親とも超貧困家庭育ち。親戚もみな貧乏で、ほぼ中卒だった。
そんな生い立ちの私は、小さい時から、
"いつ生活がどうなるかわからない恐怖感"、
"受けたい教育や投資が受けられない悔しさ"を何度も感じて生きてきた。
父の入院や失業など、あらゆる困難に翻弄されるたび、胸が潰れるような不安や、世界のどこにも自分を守るものがないような、あのなんとも言えない焦燥感が私を支配する。
そして、25歳になった今も、私は貧困から抜け出せていない。
最近、コロナで収入が減少した人たちに向けられた、なぜ貯金しておかなかったのか?有事に備えておかなかったのか?そんな自己責任論を耳にするたび、どうしようもない憤りを覚える。
コロナ騒動が始まる前から、貧困や学歴の自己責任論は、社会に蔓延していると感じている。貧困の実態は、思ったより世間に認知されておらず、経験したことない人には想像できないものらしい。
今回は、当事者が感じる「貧困」について、実体験から思うことを書き綴ってみようと思う。
一応言っておくが、自分が貧困代表なんて1ミリも思っていない。
ただ、貧困とはどういうものか、少しでも知ってほしいのだ。
私が普通と違った50のこと
まずは、幼少期から現在まで、タームごとに、私が「普通の人と違う」と感じてきたこと、違和感を書き上げてみようと思う。
〜幼少期編〜
・父の仕事がコロコロ変わる(十数回)
・車がコロコロ変わる(知り合いの車屋さんから中古車を5万くらいで譲ってもらうものの、すぐ壊れて、買い直すを繰り返していた)
・七五三をやっていない
・誕生日、クリスマスプレゼントを買ってもらったのが保育園まで
・家にジュースがなく、飲み物は麦茶のみ
・習い事をさせてもらえない(子供チャレンジなどの通信教育含む)
・勉強机が無い
・お年玉という文化がない
・親戚との交流がない(交通費が無くて家に行かない)
・家族で旅行に行ったことがない(これは現在に至るまで)
・TVが(2年前、つまり2018年まで)小さなブラウン管。地デジ化後もチューナーをつけて使っていた。
<父が定職につけず、慢性的な貧困>
私の父には、精神的な障害がある。物心ついた時から父は仕事を転々とした。定職に就くことが出来ず、家で毎日同僚に1時間電話で怒鳴り散らしり、ずる休みをするなどを繰り返していた。
父の失業中は本当に金がなくて、家中の小銭を集めて一緒に駄菓子を買いに行った記憶がある。
<学習環境、習い事などで周囲との格差>
ゲームや漫画をはじめとした本という娯楽は無く、図書館なども街まで出ないと無かったので、7キロ〜10キロ離れた友達の家まで行き、ゲームを一緒にしたりしていた。
小学生になると友達はみなピアノ教室などに入っていたが、私は習い事をさせてもらえなかった。
また、チャレンジや公文なども何度も頼んだがそのたびに申し訳なさそうな顔をされた。
みんなしているのに何で?そう言うたびに母はとても悲しい顔をしたし、食い下がると父が猛烈に怒鳴りつけてきたので、我慢するしかなかった。
〜中高生期編〜
・制服がお下がりで寸足らず
・部活をさせてもらえない
・音楽プレーヤー買えない
・参考書はほぼ中古(Amazonで1円で購入)
・塾に行けない
・浪人、私立進学という選択肢がない
高校の制服は、いとこの制服をもらったのだが、袖や裾が寸足らずだった。他の知り合いから丈の長いものをもらったのだが、今度は横幅が広すぎて不格好だった。
<家に学習環境がない・受験でも様々な制約>
中学もそうだったが、父の意向で運動系の部活はさせてもらえなかった。ユニフォームや道具、合宿にお金がかかるからだ。
家に勉強机が無く、冷房も無かった。また、家では父が、母に暴力を振るったり、姉や私に怒鳴ったりするような状態で、とても安心して勉強など出来る環境ではなかった。大事なテスト前に勉強していると、父が電話で同僚を怒鳴り始め、「テスト前日なので静かにしてほしい」と頼むと、関係ない!と私が怒鳴り散らされた。
家に学習環境などなかったので、高3になると朝7時台に学校に行き、学校が終わると図書館へ移動し、毎日閉館まで残り勉強した。閉館後は隣の市民ホールが22時まで開いていて、薄暗く冬は寒かったがそこで勉強し続けた。 体が弱かったので、毎日倒れそうになるまでがむしゃらに勉強し続けた。
結果、センターで失敗はしたが関西の公立大学に合格。
第一志望を諦められず浪人したかったが、親に経済的に難しいため諦めてくれと言われ、前期で受かった大学に進学した。
〜大学時代編〜
・大学の入学金は、知り合いに借金
・仕送りもらったことない
・留学できない
・美容院はカットモデルで0円
・服が買えなくてトータルコーデができない(トップスかボトムスの選択を迫られる)
・高校生からしまむらの790円のブラトップを、紐がちぎれるまで着ていた
・成人式はしまむらのスーツで参戦
・ゼミの飲み会に参加できない
・友達とプレゼントとの予算が違いすぎてお返しに困る
・奨学金が実家の生活費補填に使われる
・祖母の葬式行けなかった(交通費足りず)
・大学の卒業式で袴を着れない
<入学金、学費、生活費は全て借金>
大学に合格するも、キラキラのキャンパスライフなんて縁遠くて、ここでも経済的余裕がないが故の困難が絶えなかった。まず、入学金(4〜50万だったと思う)という大きなハードルが。母が知り合いに借金し、なんとか入学することができた。
友達は両親や親戚から卒業祝いや入学祝いに成人祝い、そして仕送りをもらうらしかった。
一方私は、そういった援助は一切なく、奨学金を1種2種併用して借りた上に、一度両親に振り込まれるため、知らない間に実家の生活費の補填に使われていたりもした。
<生活用品を揃えるのも精一杯・穴あきの下着を愛用>
入学して一つ目の問題が、私服がないということ。2日分のコーディネートを完成させるだけでお財布にとっては大打撃だった。
下着類は高校生から同じものをゴムが伸び切り、穴が開くまで使っていたのだけど、強制参加のゼミの合宿でお風呂に入った時のこと。友達にヨレヨレのブラトップを着ていることがバレて、「コードブルーみたいに、意識不明で倒れて駆けつけた山ピーに服裂かれた時、しまむらのヨレヨレブラトップだったらどうするの?」とキレられて、後日、下着屋に連行されたことは忘れられない。
<お金が無い、を理由に外食や旅行も断る>
また、友人付き合いも悩みの種だった。
友人たちは、誕生日などにはジェラートピケの8000円するパジャマや、5000〜8000円するでデパコスなんかを贈り合っていて、正直誕生日が怖くて仕方がなかった。ゼミの飲み会も、1回3千円するため、断り続けていた。
<教科書やPCが買えず、学習環境が整わない>
勉強をする上でも苦労は絶えなかった。教材費もバカにならない。いつも教科書は中古で買ったりもしたが、大学の教授オリジナルのものや、その年に版が変わったものはどうしても新品で購入しなければならない。
また、英語の必修の授業で辞書が必須だったのだが、みんな電子辞書の中、一人だけ紙の辞書(中古で古い版のものを700円で買った)を持っていき、当てられた時に単語を調べるのが遅くて周囲の注目を集めていた。
また当然PCも買えず、課題をやるために休日も40分かけて大学に行ったりしていた。
3年生の時やっと買えたものの、性能が悪く重過ぎてとても持ち運べなかった。
<成人式、卒業はスーツで参加>
大学生の時期の一大イベントとして、成人式がある。当然振袖をレンタルするお金などなかった。結果しまむらで3点セット7000円で購入したスーツで参戦したが、会場の女性でスーツは私とあともう一人だけだった。晴れ着を見に纏った友達は本当に綺麗だったが、ビジネススーツを着て、ヘアメイクも普段どおりの自分との対比が、正直切なく、その時の侘しさはまだ胸の奥に残っている。"はれのひ事件"が世間を騒がせた時、振袖が着れなかった子たちを可哀想に思うと同時に、初めからレンタルする選択肢がない人のことも、世間に知られてほしいな、なんて思った。
〜現在(社会人)編〜
・就活グッズは人に借りるもの
・一人暮らしできない
・仕事用PC買えない
・車の免許取れない
・移動はもっぱら夜行バス(自費で新幹線乗ったことない)
・体を壊して入院すると、生活が脅かされる
・ピル飲めない(お金ない)
・意図せぬミニマリスト→4.5畳、収納なしのシェアハウス在住のため
・父が無職に→姉夫婦が実家に仕送りをする
社会人になってからも、毎月3万2千円の奨学金返済はなかなか負担になっている。(返済完了する頃には、40歳を過ぎている。)
就活するときもとにかくお金が無くて、就活バッグは友人に借りた。私服可の面接で着ていく服がなく、本命の面接にユニクロのTシャツにサンダルで行ったこともある。(当時、壊れたパンプスとサンダル、使い古したスニーカーしか持っていなかった)
<入院したら無一文に>
上京してから、一人暮らしする資金が作れず、初期費用なし、家具家電付き水道光熱費WiFi込み3万6千円のシェアハウスに引っ越した。しかし環境が合わず1週間で体調を崩しそのまま入院。冒頭のエピソードはその時のものだ。1週間後、退院が許可されるも、入院費が払えない。保証人と連絡が取れないと帰らせてもらえず、なんとか姉夫婦と連絡が取れ一時金1万を納め退院した。
退院後、引っ越しを余儀なくされたが、相変わらず初期費用がない格安シェアハウスしか選択肢がなく、その度にハウスダストアレルギーなどに見舞われ3ヶ月の間に6回引っ越しをした。(もちろん毎回キャリーケースを引いてのセルフで行った)
そしてやはり格安シェアハウスは問題だらけだった。
<住環境が整えられず、不眠で心療内科へ>
夜中PC作業をしていると、下の階の人がうるさいと怒鳴り込んできたり、寝ようとすると隣の部屋でどんちゃん騒ぎが始まったり。埃が酷くて鼻が強烈に痒くなったり、雨の日は雨漏りで台所に海ができたこともあった。また共用のシャワールームには生活上の注意が書かれたポストイットにびっしり貼り付けられている。
仕事でどれだけ疲れて帰っても、そこは安心できる場所ではなく、私の場合、STAY HOMEはSTAY HELLだ。
しかし家具家電を揃えるお金も、初期費用もないため、相変わらず家具家電付き家賃水道光熱費wifi込み3万円台のシェアハウス暮らしを続けている。
夜、音を立てないようセルフスナイパー生活を続けた結果、不眠になって心療内科に行き、精神安定剤をもらいながら生活をしている。
ワープア女子が思う、貧困とは
私が、貧困とは何か?と聞かれたら
「選択肢を持てないこと」だと答えるだろう。
衣食住を整えること
医療を受けること
教育などに投資すること
災害や感染症などのリスクに備えること
これらは全て、お金によって得られるものだ。
逆に言えば、お金がないということは、
それらを得る選択肢がないということだ。
その結果として、安物買いの銭失いのループから抜け出せない呪いにかけられるような状態に陥る。例を挙げると、
・100均でベルトを買ったら、1週間で金具が壊れた
・中古のスキニーを履いていたが股が裂けた。しゃがまなければ見えないので1か月履き続けた。
・安いとこに引っ越して入院→10万飛んだ
・安いパンプスを買ったらカパカパ過ぎて、中のクッションで補強、結果補強用の中敷やクッションでパンプスと同じ値段かかった
・Lサイズで4000円のキャリーケースを愛用し、それで引越しをしていたので半年もたず、買い換えるを4〜5年繰り返していた。
・安いPCで作業効率が悪く、友人のmacを借りたら同じ作業が1/3の時間で終わった。
・4000円の布団セットを使うも腰が痛くなる
などなど、あげればキリがない。長い目で見ればコスパが良いのは、多少、値が張っても質の良いものだろう。そんなの、わかり切っている。
ただ、初期投資するお金がないのだ。必然的に値段の安い粗悪品を買わざるを得ず、すぐに買い替えが必要となり、結果損をする。
仕事を詰め過ぎたり、住環境に投資できずに体調を崩して医療費ががかる、など。
正直何のために働いているのかわからなくなる。
見えない貧困は無いものにされる
都会に出て、広い世界を知れば知るほど、他の人とベースが違う、当たり前が違う。前提が違う。
幼少期から、周囲との対比、交流から感じていた違和感の輪郭が、徐々に、はっきりと見え始めた。
もともと、当たり前にベースがある人は、それを持たない人の状況がイマイチわからない、想像できないものだということも。
大学の友達は言った、
なぜ、資格を取らないの?
なぜ、振り袖を借りないの?
なぜ、発展途上国に興味があるのに、留学やスタディツアーに行かないの?
東京に出てきて知り合った人は言った
なぜ、一人暮らししないの?
なぜ、自分をもっと大事にしないの?
なぜ、PCを買わないの?
世間はコロナで貧困に陥る人に言った
なぜ貯金していないの?
なぜ有事に備えておかないの?
悪気はないであろう、純粋無垢なその疑問を向けられるたび、言葉に詰まった。
悪気がないと分かっているからこそ、悲しくて、切なかった。
自分が必死にもがいているうちに、もともとベースがある人たちは一つ一つ効率よく積み上げていく。
そして、私とは違う世界から、違う前提から、
「こうやって努力しておけばよかったんだよ。」
「努力でどうにでもなるんだよ」
と、そんな言葉をかけてくる。
生まれで人生が100%決まるだなんて、まったく思わない。
ただ、努力だけで現実を変えられるというのも、また違うと思う。
普通は想像できないような、さまざまなハンデを背負っている人たちが、世の中にはいる。
埋めても埋めても埋まらない穴を埋め続ける。隣で、整った土地から積み上げていく人たちを横目で見ながら。
貧困の自己責任論に終止符を
時に、貧しい境遇から、努力で抜け出した立場の人が、自己責任論を語る側になる場合がある。そんな場面を幾度となく見てきた。
貧しさを抜け出せた要因が、自分の努力だと信じ切っているからだろう。
努力で環境は変えられる、そう証明するために生きるのは自由だ。でもその努力でどうにかなるという考えを、他人に向けるのは違う。
自分が自分の境遇を乗り越えたからと言って、似たような境遇の人が乗り越えられる証明になんてならない。
それぞれが置かれた立場や背負っているものは、複雑多様で、誰一人として、同じ人などいないのだから。
**今、貧困の当事者である人たちへ **
私も他の人に言われて気づいたけど、貧困を味わった経験は、自分が思うより何倍も価値がある。ある編集者さんが言っていた。メディアという仕事に就く人は、本当の貧困の当事者はほとんどいないと。メディアに限らずそうだ。政治家など、この社会を作り上げていく人たちは、生まれながら強者である場合が多いの現実だ。
世の中はいつも、強い立場の人が発言権を持ち、発信力と影響力を持っていて、その人たちの前提をもとに、あらゆるものが作られていく。
弱者の声は届かないし、そもそも、発信する人が少ない。
貧困への想像力の欠如は、身近にモデルがいないから、いたとしても隠されているから、生まれてしまうのだと思う。
どうか、あなたの置かれた立場、境遇、体験を、発信して欲しい。当事者にしか見えない景色がある。それを伝えられるのは、身をもって経験してきた私達なのだ。
弱者の当事者性は、発信することで必ず強烈な武器になる。
生まれに関わらず、機会の平等と、安全が守られる社会になってほしい。
貧困の自己責任論に終止符を打つ。
これがわたしの強い願いであり、生きる目的でもある。
見えない貧困を、無いものにされないために、私はこれからも発信し続けていく。
2022年9月3日追記
初の書籍 『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)を刊行しました。