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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第9回 孔子さまはどこへ消えた!?

(25)大成殿がでんと建つ。青空の下で、くすんだ臙脂(えんじ)の壁と多色の瓦が、なかなか渋い味を出している。なだらかな曲線をえがく屋根には、ところどころ雑草が伸び放題。いや、小さな木すら勝手に生えている。おごそかな空気と、ほのぼのした空気が、本当にいい塩梅(あんばい)に共存する。この大成殿は、南宋の咸淳(かんじゅん)元年(1265)の創建。その後たびたび戦火に遭い、現在の建物は清(しん)の同治六年(1867)に再建されたものだという。ちょうど徳川幕府による大政奉還の年である。こちらでは東太后と西太后による垂簾聴政(すいれんちょうせい)の初期か。中はどんな具合だろうとさらに接近してみると、意外な光景に出くわした。なんと大成殿の中で、男女二十名ほどが集会の真っ最中であった。そう、ここもすでに公民館として利用されていたのだ。ぼくはてっきり、正面に孔子さまの像があるもんだと予想したが、そうではなかった。室内には木製の椅子がびっしりと並び、左手は舞台、天井にはスピーカーやライトがぶらさがっている。天井扇もビュンビュン高速回転している。嗚呼(ああ)、残念閔子騫(びんしけん)。これには正直がっかりした。

(26)で、その場を離れようとしたとき、室内から歌声が聞こえてきた。突然合唱がはじまったのだ。紅岩上紅梅開、千里冰霜脚下踩。舞台の上で、老年男性が指揮をふるう。曲は紅梅賛(ホンメイツァン)。革命歌劇「江姐(ジアンジエ)」の主題歌である。ぼくはイントロクイズよろしく、歌いだしで思い出した。昔、池袋の中華系書店で、中共の革命歌と建国期指導者の講話が収められたCDを購入したことがある。大学時代に中国政治を専攻した流れで、ふと往時の世相を押さえておきたいと思い、手を伸ばしたのだが、そこに紅梅賛も収録されていたのだ。三九嚴寒何所懼、一片丹心向陽開向陽開。この曲はなんでも中国の民謡をベースに作られたというだけあって、中華色たっぷりで、なかなかクセが強い。動画サイトにも多く投稿されており、中には、かつて人民解放軍の明星(スター)歌手であった彭麗媛(ポンリーユエン)が唄うバージョンもある。そう、誰あろう、現国家主席夫人その人である。紅梅花児開朵朵放光彩、昂首怒放花萬朵香飄雲天外。ぼくは、鄧小平が改革解放をスタートさせ、日中平和友好条約が締結された、1978年(昭和53)の生まれである。ぼくら世代の外国人にとってばかりでなく、きっと多くの中国の若者にとっても、これらの作品は絶望的に共感できない代物(しろもの)だろう。だが、懐メロや映画から昔の風俗や流行を知るというのは、案外興味が尽きないものである。人種や国籍を問わず、誰しも青少年期に身につけた習慣や思い出とともに、今この時代を生きている。二十一世紀だって同じことである。だから、こういう愛唱歌を通じて、一定の年齢層が共有する「時代の記憶」に思いを馳(は)せてみるというのも、今を生きる相手を慮(おもんぱか)るうえで、必ずしも無意味なことではないと思うのである。喚醒百花斎開放、高歌歓慶新春来新春来。ここで一節が終わるが、歌はまだつづく。

(27)そこへ。ちょっとあなた、何をしてるの? 世話役らしいメガネの女性に呼び止められた。じつは、講堂の戸口から合唱の様子をスマホ撮影している爺さんがいたので、ぼくもつられてカメラを向けていたのだが、爺さんのほうは「オラ知らねえ」とばかり後ずさりして、いつの間にかフェイドアウトしていた。おいおい。取り残されたぼくは、努めて平静を装い、次のように応答した。ああ同志(トンジー)、ぼくは遠路日本より来た游客(ヨウコー)です。いま文廟を楽しく見学しています。えーと、写真はダメですか? と、そんなふうにまあ、不器用に答えていると、ああ、あなた游客なの、じゃあゆっくり見学しなさい、と彼女。中は活動中だから、外を見学しなさい。はーい。先方はこちらの目的が判明すればそれでよかったらしい。職務質問はこれで終了した。ホッと胸をなでおろす。ところでだ。はて、孔子さまはどこへ消えてしまったのだろう。しばらく木陰でたたずんでいたぼくは、かたわらに催事一覧の掲示をみつけ、それでやっと現・大成殿の具体的用途を知った。ずばり、ここは地元政府や共産党委員会による勉強会の場となっていたのだ。孔廟もいまや、置かれた場所で咲くことにしたのである。

(28)例えばこうである。今月の催(もよお)し。九月六日、主題「退休不褪色(退職しても色あせない=ぼくの自由訳、以下同様)」。リタイア後の党員の身の処し方をレクチャーするのだろう。読書会、革命芸術鑑賞、地域間交流、聖地観光、ボランティアとまあ、そんなところか。ここは退休(トゥイシウ)と褪色(トゥイソー)をかけて、しゃれているのが遊び心である。九月二十七日、「砥砺奮進七十載 初心共築市監夢(建国七十年、我ら市監局の夢を築こう)」。これは習近平が推している、中国夢(ジョングオモン)なる惹句(じゃっく)を意識したスローガンか。ここ数年、行政機関の標語でも企業広告でも、国家主席につづけとばかり、キャッチコピーに夢の字を挿入する大喜利合戦が、中国全土で展開されている。ここはひとつ、みなさんのご家庭や職場でもいかがか。九月二十八日、「不忘初心牢記使命(初心を忘れず心に使命をきざむ)」。漢字八字は堅苦(かたくる)しいが、これは公務員研修にありがちなテーマだ。九月三〇日、「伝承紅色基因 争做時代新人(紅い遺伝子を伝承して次世代の人材となれ)」。あとで検索してみると、これも党の教育活動の標語だと判明した。まあ部外者が聴いてもチンプンカンプンな内容だろうけど。

(29)もうお気づきだろうが、おしなべて、ちょっと何言ってるか分からないところがミソだ。道徳は道徳でも、社会主義の道を学び、伝承する学習拠点である。諸子百家の思想や漢詩漢文を習いましょうなんて空気はまるでなく、かつての主、孔夫子(こうふうし)はもはやお呼びじゃないらしい。ぼくなどは、どうせなら何でもありの実情に合わせて、もれなく論語も算盤(そろばん)も革命も講義すればいいのに、などと勝手なことを思うが、先様には先様の都合があるのだろう。異議申し立てはできまい。まあどんな道であれ、彼らにとってみれば、理想を語る仲間がいる、というのが救いといえば救いなのかもしれない。子曰(しいわ)く、徳は孤(こ)ならず、必ず隣有り(『論語』里仁(りじん)第四)。孔子さまの言行録を思い出しながら、ぼくは半ば投げやりな気持ちで文廟を出た。県学街へ戻ると、古色ゆかしき泮池と門が最初に見たときより、なぜかいっそう格好よく見えた。もう一度写真に収めて別れを惜しみ、ふたたび南へと歩を進める。

大成殿(道徳講堂)の内部、合唱活動の一コマ。
名残惜しいけど、文廟と工人文化宮(奥)にお別れ。

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