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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第48回 陋巷と云うなかれ ─観音庵巷にて─

(64)日は天高くから光を注ぎ、裏道の南半分を陰、同じく北を陽となしていた。当然どこを歩いても、家々の洗濯物が北側いっぱいにひるがえっている。三義街を東に折れたその一帯は観音庵巷(グワンインアンシアン)という。リヤカー、オート三輪、バイク、自転車、植木、ひなたぼっこ用の椅子、パラボラアンテナ、モップ等々。他にも名状しがたい、さまざまな生活用品が道端に置かれていた。どのお宅も、玄関前が内庭のごとき構えである。また小さなブランコ風の遊具があったり、お風呂用おもちゃのヒヨコが洗濯物と一緒に干されているようなところを見ると、どうやら幼い子供もいるらしい。モンステラみたいな植物が道の半分まで飛び出しているかと思えば、その茎は民家の中から伸びていたりする。おっと、こちらは廃屋のようだ。テレビの音声が漏れ聞こえたり、家中の笑い声が聞こえたり、はたまた日陰でのんびり座っているおばあさんの姿を見かけたりする。生活感のある風情から窺(うかが)うに、まだ七、八割がたの住人が残っている様子だ。今のところ、退去通告の文書はどこにも掲示されていないし、廃屋の玄関に移転完了または封鎖を示す印があるわけでもない。まだまだ、のどかで明るい印象である。けれども、果たして今後はどうなるのだろうか。やはり再開発区域に指定されるのも時間の問題かなあ。のんきな旅人のくせに、またそんな勝手な心配をする。さて、この迷路状の路地エリアを、ぼくは「コの字」を繋(つな)ぐようにしてジグザグに進んでいった。無人で色とりどりの洗濯物が目立つ通りもあれば、生活用品が一切なく左右にただ家々の壁がせめぎ合うだけの通りもあった。観音庵巷は少しずつ表情を変えながら旅人を迎えてくれた。一度だけ、バイクに乗った女性が軽快に路地を抜けていくのを見た。彼女は長い髪をなびかせ、その洗濯物だらけの回廊へと消えていった。その探訪ごっこの最終盤。ひときわごっついレンガ積みの民家の前では、真っ黒に日焼けした上半身裸のご老人が三つ足の火鉢で、大量の木の切れ端を焼いていた。時おり、バチバチッと大きな音を立てながら、火バサミを器用に操っている。民家の主(あるじ)か、あるいは空き家の片づけに当たる職人か。白髪の坊主頭で口髭(くちひげ)をしたその人は、ごく小柄といえども贅肉なく引き締まった、まさに鋼(はがね)のような体躯(たいく)だった。ぼくは道に迷ったふりをして彼に軽く会釈をし、そのままスーッと観音庵巷から退出した。これは失礼、おじゃましました。

(65)こんなふうに、表通りから横丁へと足を踏み入れ、道なりに散策していると、人々や樹々や家屋の温かい息づかいを感じさせる、地味ながらも濃密な風景と出会うことができる。当然といえば当然だが、荒っぽくて騒々しい公共空間とは異質の、まさに等身大のひそやかな人間世界がある。歩いた時間はわずかだが、なかなか印象的な路地裏体験だった。

(66)もう二十年近く前のことだが、ぼくは同じく五日間の弾丸旅行で、福建省永定県にある客家(はっか)の土楼群を訪れたことがある。のちに世界遺産に登録される、城塞のような伝統民居である。香港・深圳・漳州・竜岩を経由、すなわち鉄道・夜行バス・タクシー・路線バス・バイクタクシーを休みなく乗り継いでぶっ飛ばし、山間の村に入り、築百年以上の集合住宅を二日間周遊した(出発日夕方に香港到着、翌日午前に永定着という強行軍だった)。いまはどういう状況か知らないが、承啓楼(しょうけいろう)という美しいドーナツ型四階建ての大型土楼には、当時旅行者を空き部屋に泊めてくれる家族があって、ぼくは彼らの好意でそこに二泊した(もちろん最後は謝礼を支払った)。江(ジアン)という姓の一族が数百人住んでいた。建物の中心に祖先を祀(まつ)るお堂があり、その周りが炊事場と家畜の飼育スペース、さらに円形の通路を隔てた外周が各戸の居住区となっていた。ちょうど年長の台湾人観光客が一人遊びに来ていたので、ぼくは彼と一緒に付近の古民居をめぐったり、現地の墓参りを見学したり、歩き疲れるとちょっとした食い物屋でビールを飲んだり小吃(シアオチー)を食したりした。彼が永定を離れると、今度は地元のバイクタクシー運転手が、野越え山越え川越えて、各村の特色ある家々を見せてくれた。そのうえ夕どきになると、遠慮しないでうちで飯を食え、酒を飲もう、家族に紹介したい、泊まってもいいぞ、いいやぜひ泊まれ、などと熱心に誘ってくれた。そのときは心が揺らいだが、江氏宅にも義理があるし、翌日早朝に承啓楼発のバスに乗らないと帰国が危ういと思ったので、丁重に辞退したしだいである。フーン、そんな場所は初めて聞くよという方はぜひ、客家土楼、と画像検索してみてほしい。もともとは倭寇や山賊から一族を守るため、福建省各地に建てられたといわれる土楼だが、のちに華僑の成功者などが、故郷に錦を飾るべく大金を投じたせいで、一部が巨大化したという歴史がある。そういう場所に泊まると、おらが一族のコミュニティーの内と外では、まったくもって世界が異なるのだ、という彼らの考え方が実感できる。百聞は一泊に如かず、だ。外地から一人やって来たぼくにとって、そこはまるで合宿所みたいな世界だった。二泊もすると、高齢の江夫婦は寮長さんと寮母さんみたいに思え、そのお孫さんは一族みんなの弟分に思えてくる(子供の両親はともに出稼ぎ中だった)。それは当の住民たちがもつ強固な連帯感とは異質の、付け焼き刃の仲間意識には違いないが、血縁とそれ以外を明確に区切る文化・習慣・歴史を、間近から眺める良い機会ではあった。ぼくは承啓楼滞在時、江氏宅のたしか三階に寝泊まりしていたのだが、小便は部屋のなかのバケツで、大便は外の厠所(トイレ)でするように言われた。日が暮れれば、あたりはほぼ闇である。深夜土楼の外へ出て、キャンプ場みたいな真っ暗闇のなか厠所を使っていると、ああ、ここは土楼という城塞の外側、すなわちコミュニティーの圏外なんだ、自分の身は自分で守らなきゃいけないんだ、などと妙に心細い思いをしたのを覚えている。承啓楼にしても他の土楼にしても、やはり閉鎖的な居住区域の心地よさと、その半面で知らず知らずに鬱積する不自由さがあると思う。でも、長らくそんな制約のなかで、連帯のメリットにすがってきた彼らの住まい方は、少し意識的に心に留めておきたいと思う。福建省永定県の思い出を参照し、時々そんなことを考えながら、観光がてらぼくは寄り道を繰りかえしている。

色彩ゆたかな路地に、ついつい引き寄せられる。
どれが電線でどれがロープだか・・・こんがらがり過ぎて皆目わからない。
正午近く、日陰がない南北通路は足早に通りすぎる。
衣類に混じって、魚の切れ端のようなモノも見える。自宅で干物作り?
炎天下で火箸を操り、バチバチいわせている老爺。格好良すぎる。

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