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それゆけ李白マン~中国街歩き詩選~ 第43回 荊州の古塔と天女1号

(52)つづいて長江沿いの公園、万寿園に到着。お目当ては二つある。全国重点文物保護単位に指定される明代の塔、そして長江である。喜び勇んでクルマを降りてみると、そこに麗しき女神が舞い降りた。からころも、否(いな)しろたへの。いや相応(ふさわ)しい言葉が出てこない。なにしろ湖北省の旅先である。伝説の巫山(ふざん)の神女ではないかと目を疑った。漢服というのか唐服というのか、ともかく白地の時代劇風衣装に身を包んだその黒髪の女子は、幅広のゆったりとした袖(そで)や裾(すそ)をなびかせながら、スーッと園内へ消えていった。大ぶりの黒扇を手に、じつに軽やかな足どりで。唐突なるヒロインの登場に我を忘れ、ぼくはポカンとその後ろ姿を見送った。初めチラと覗いた幼い横顔からすると、おそらく二十歳くらいだろう。万寿園の入口は、浅葱(あさぎ)色の瓦屋根を戴(いただ)く赤門である。そんな古風なロケーションと伝統衣装との相乗効果により、異国の旅先で一瞬、時代感覚が失われる。所謂(いわゆる)古装劇(時代劇)の人気とSNSの興隆、それから近年とみに喧伝される愛国消費ブームが後押ししているのか、このようなコスプレは2010年代、数日間の旅行でもたびたび目にするようになった。いま現れた彼女も、自撮り投稿目的かなにか知らぬが、きっとそのような趣味なのだろう。ぼくの記憶では、2013年春に四川省成都市を訪れたところ、こうした古典的装いの少女たちと立て続けに遭遇。大いに驚かされた。場所は、成都きっての観光名所である杜甫草堂と武侯祠。其処(そこ)では時代劇風の「扮装」にとどまらず、なぜかディズニー的お姫様ファッションの集団にも出会った。庭園内の水辺で彼女たちが撮影に興じているさまを、他の観光客とともに遠目に眺めていたのを覚えている。過去の中国旅では、街ナカで派手な色合いのファッションや「北京ビキニ」と呼ばれるお腹を出したおじさんの姿に目を奪われることはあっても、趣味ベクトル全開のコスプレで街を闊歩する人など、一度も目撃したことがなかった。ぼくは当時、章子怡(チャン・ツィイー)や趙薇(ヴィッキー・チャオ)、はたまた范冰冰(ファン・ビンビン)といった、時代の寵児たる女優の主演作品あたりから古装愛好の芽が生まれ、(物心両面で余裕ある)若者たちの間で普及したものと推測していた。だが、帰国後に周囲の中国人たちに訊ねてみると、とくに流行発生の端緒となった作品は思い当たらないと口を揃えて言う(日本人の感覚だと、テレビ発のブームに乗っかって一斉にと考えがちだが)。また、彼女たちの姿や立ち居振る舞いから透けて見えるのは、単なる豊かさの誇示ではなく、自分の趣味に正直でありたいとか個性的に生きたいなどという、日本の若者と変わらぬ「渇望」なのである。中国女子の間で浸透した漢服人気も、やはりある程度の時間・空間の幅をもって若者ファッションの一流行ジャンルと認知され、しだいに「SNS映え」を競う愛好者を量産するに至ったものと了解させられる。もちろん、淘宝(タオバオ)などネット販売企業の台頭も、流行を支える大きな環境変化として挙げられるだろう。

(53)それはそうと、この漢服ブーム。不思議なことに、2019年時点では(SNSを含む)日本語媒体でほとんど取り上げられていなかった。ぼくの調べによると、この旅の直後、2019年9月28日に東方新報が「漢民族の伝統衣装『漢服』 中国の若者の間でブームに」と伝えたくらいである。結局は、2021年後半になってようやく、各社堰を打ったように横並びで流行を報じるようになったのだが、これには正直ぼくもズッコケてしまった。見たところ、この現象は全国の都市という都市でかなり「可視的に」広まっていったはずである。外見的衝撃(インパクト)も大きく、画像付きで紹介しやすい。となれば、まさに格好の「映える」素材ではないかと。しかも、ひとたび彼女たちの存在に気づけば、やはり相応の背景・動機を追いかけたくなるのが人情であろう。はたして報道関係者たちは、街ナカで何か心惹かれるものがなかったのだろうかと、ぼくなどはそう訝(いぶか)しむのである。だがここは、中国旅行ならではの数々の「幸運な発見」に心躍らせた経験から、敢えて時間尺を長くとり、この現象について考えてみたい。まず何より、およそ漢服とは、身体をゆったりと包む、日本の着物よりもっと日常使いしづらい形状であり、また比較的薄い素材を多用しているという部分に注目したい。単なる憧れや思いつきで、安易に着用できる代物ではないのだ。もちろんやってみたことはないが、外出には相当ハードルが高そうだ。そこで思い至るのは、漢服流行に必要不可欠な「新しい社会の仕様」である。すなわち、①材料・製品・着こなし情報が広くあまねく共有され、②安全かつ清潔な環境で歩行・市内移動が可能で、③さらに華麗な装いに相応(ふさわ)しい撮影場所と、④魅力的な投稿サイトが存在する、といった下地だ。現時点で羅列してみると、すべて当たり前のことに思えるが、これら諸条件を無視することはできない。たとえば、各都市が美観地区を指定して古い街並みを保存・再現したり、撮影に適した緑豊かな公園を整備したり、あるいは地下鉄路線を張りめぐらせて交通網を充実させたり。つまり、先述の障害を認めたうえで、それでも漢服が着たいと思う(かつまた彼女たちがご機嫌で撮影できる)環境が整ったということも、当然考慮・言及されるべきではないかと思うのだ。そこで時代をさかのぼり、もしも1990年代、古装愛好の十代女子が果敢にこれを実践していたらどうなっていたか。さあ、軽く想像してみよう。それは苦難の連続、まさに行路難(かた)しである。

(54)まず「彼女」は、半日かけて市内の卸売市場を訪れ、終始大声で値段交渉して相場を知り、めぼしい業者から安く生地を仕入れることになる。コネがあればいいのだが、一般的な買い物では、ひたすら当人の体力・忍耐力・交渉力が試される。ついでに、国営の新華書店で印刷・製本の良くないモノクロの服装図案書を一冊買ってくる。此処でもたいてい、各フロアに喧嘩腰の従業員が控えている。無事に材料を入手できたとして、すでにこの時点で足が棒になる。精神的疲労も免(まぬか)れない。それから、自宅でみずからハサミと糸と針を操り、見よう見まねでなんとか漢服らしきものを拵(こしら)える。しかし、問題はこれからだ。一張羅を召して一歩家を出たなら、凸凹(でこぼこ)道や路上のゴミできっと靴や裾を汚すことになる。運転の荒っぽい、オート三輪やリヤカーとの衝突にも気をつけたい。それだけではない。地区によっては、犬や鶏やその他の家畜を避けながら慎重に歩かなければならない(彼らの落とし物にも注意!)。当然、時間を持てあました近所のおじさん、おばさんには貴妃様とからかわれ、陰でうわさ話をされる。それと小さな子供が数人、珍しげについてくるかもしれない(遊び唄のように何か囃し立てながら)。行き先はそう、市中心部の人民公園あるいは寺廟、そこで類友と集合する流れとしよう。おしゃれなカフェやフォトジェニックな商業施設はまず存在しない(風流な名勝旧跡を探すなら金のかかる小旅行になってしまう)。さて、自転車やバイクを避けながらてくてく歩きつづけ、やっとのことで公交車(バス)に乗る。料金は日本円でわずか数円。大都市では公交站(バス停)ぴったりに停車することは稀なので(別路線の車両もひっきりなしにやって来るため最初から正しい停車位置に止まらないのだ)、必ずといっていいほど、軽くダッシュするハメになる。扉付近では乗降客が入り乱れ、押し合いへし合いだ。もちろん、車内は大混雑で裾は大きく乱れる(車掌から切符を買う時代だったら此処でも少なからぬ客が喧嘩をしている)。そして、どうにかほうほうの体で目的地へやって来たとしても、友人と定刻に落ち合える保証はない(時刻表どおりの市内交通機関などないのだ)。仕方なく公園内、または境内を徘徊すれば、周囲はお茶をすすったりおしゃべりしたり太極拳をしたり、麻將(マージャン)や捕克(ポーカー)に明け暮れる老人たちがいるばかり。あとは、父母の帰りを待つ幼子をジジババがあやしていたり。そんな環境で、お誂(あつら)え向きの撮影スポットはなかなか見つからない。それどころか、この時代の漢服姿はやっぱり人目を引きすぎる。いったい、この姑娘(クーニャン)はどうした、見合い写真でも撮るつもりかと騒ぎたてる、遠慮ない野次馬を呼びこむことも想定される。それでも、やっとのことで二、三の同好の士と合流を果たし、何とかいい感じの庵や東屋(あずまや)を確保、ひとしきり写真撮影に成功したとする。でも、結局この時代、会心の画像をアップロードする場所があるわけでもない。写真屋へフィルムを持っていって現像に出し、数日後に受け取りに行かねばならない。仮に、撮影が主目的でなく、とにかくトラディショナルな装いで街歩きがしたいという動機であったとしてもだ。これまで見てきたように、外出自体のハードルが高いことは自明である。いや、そもそも90年代の中国の街といえば、どこへ行っても埃っぽくてすえた匂いがして、さらに今と比較にならないくらいガソリン臭も強烈だ(幹線道路や工事現場付近はとくに息苦しかった)。だから、純白の漢服で長時間歩き回るなど無謀の極みで、それこそ即日ズタボロ状態となったに違いない。かといって、外出中に任意の公共厠所(トイレ)で勇気ある着替えができるかといえば、これまた「究極の選択」であろう。汚れや臭いはともかく、たいてい個室がないのだから。だから、もし本当の安全策を採るならば、自宅そばの路地などで、幼馴染みか兄弟姉妹に写真を撮ってもらうしか手立てがないのだ。ひとまず、これが一般論。最後に特殊な例を挙げるが、北京の円明園や大観園などに自家用車で乗りつけ、西洋風・中華風の名園で華やかに「女優ごっこ」ができるのは、それこそ一部の富裕層に限られたはずだ。それに同時代、日本であればサークルや文化祭のノリで子供が気軽に楽しめそうな話だが、ほぼ勉強漬けの毎日を送る中国の高校生・大学生にとっては、むしろ個人的趣味であったとしても、手間がかかる上に賛同者を得られにくいという点で、やはり縁遠いジャンルだったろうと察せられる。とくに寮生活を送る学生ならば、ヘンな趣味にかまけていないで勉強しなさいと、ルームメイトにまで反対されそうだ。以上ここまで、なかなか壮大な妄想文になってしまったが、事ほどさように時代の変化は甚大だ。

(55)とにかくかようなわけで、ぼくも当初は古装少女と遭遇してビックリさせられたと書いたが、裏をかえせば表面的な服装の流行以上に、多様な趣味を成立させ、また許容する街や人々の大変化に内心圧倒されたのだ。中国の若者だって、この十年二十年、物質的豊かさを享受しながら大量の情報や流行に接し、思い思いの趣味を楽しめるようになったわけである(異国の話といえど、ぼくはそうした想像力を欠かさずに各世代の中国人を観察・理解したいと思っている)。たとえばもし、ぼくが先の妄想・昔話を滔々と語ったら、今の中国人学生はもれなく鼻で笑うだろう。でも、ぼくに言わせれば、これは十分に実感および真実味のある妄想である。そこで、いっそ90年代の街路・商店・公園の実景を改めて思い浮かべながら、皆さんと漢服ブームの背景・下地をさぐってみたいと目論んだわけである。さて、ここで読者諸兄に、今ひとつイマジネーションを請うてみたい。実現不可能なイフだが、ひるがえって現在の東京に江戸時代の神田・日本橋の街並みが再現されたら、如何(いか)なるリアクションが起こるだろう。それこそ、古風な外観と内装を売りにした茶店・旅籠(はたご)・一膳飯屋・芝居小屋・湯屋などが繁盛し、そんなロケーションに合わせて着物や浴衣で出かける若者が増えるだろうと、なんとなく想像がつくではないか。さらに、江戸情緒たっぷりの街並みを目当てにインバウンド客も押し寄せ、彼らも古風な格好で束の間の休日を過ごすようになるだろう(もちろん夢物語ではあるが)。何度もご紹介しているように、此処中国でも、古い街並みはほぼ消えかかっている。それでも、2000年前後に北京・故宮そばの胡同(フートン)や前門エリアが観光用に整備されたり、同時期から各地の古鎮観光が人気を博したりするなど、旧市街・村落・運河などの観光価値が、中国人のなかで再発見・再評価されてきたのも事実である(鎮とは中国の行政単位の一つで「町」「タウン」と訳されることが多い)。こうした観光施策上のアイデア・演出も、やはり長い目で見ると、漢服着用ブームの下地を作ったといえそうだ。仮に日本人が旅行で中国を訪れ、新旧各時代の中国服で記念写真を撮ろうとするならば、まあ今日び手頃な撮影場所に困ることはないだろう。つまりはこうだ。テレビでは古装劇ドラマが放送され、通販サイトには各種古装アイテムの商品情報があり、SNSには誰かの古装お出かけ日記があふれ、街中には本物であろうとリノベ物件だろうと旧時を感じさせる渋い建造物や商業地がぎょうさん存在する。もちろん、漢服姿での移動を助ける、快適な交通網も絶賛拡張中である。このように、リアルにもバーチャルにも「古装を着て街を歩こう」と若者を誘う環境が、今や完全に整ったといえるのだ。

(56)近年の中国メディアの記事によると、とくに九五后(ジウウーホウ=1995年以降生まれの世代)の漢服同好会が数多く結成され、各種仮装イベントの企画・参加例が増えているという。これまで書いてきたように、いまどきの中国女子たちにとって、古装は(架空のキャラクターになりきるという向きもあるだろうが)自分なりの個性やセンスを発揮できるファッション分野として普及してきたという印象がある。そして、既存の文化・流行を受け入れているように見えて、逆に清新で強烈なインパクトを周囲にふりまいている。特定のキャラクターや固定的意匠によらず、おとなしめの彼女たちの個性・価値観・創意工夫がその装いに自然と表れているようにも見受けられる。所謂(いわゆる)コスプレの範疇を超えて、また保守的な見た目とは裏腹に、前述の「ハードル」をものともしない現代的な「攻めの姿勢」が感じられ、ぼくなどはそういう部分に好感を持つのである。さて、妄想含みでつらつらと持論を書いてきたが、これも自由奔放にツッコミを入れたくなる中国の旅先風景ならではのこと。のんきな旅行者ふぜいで大いなる夢想を絡めながら、今昔の旅先風景を照らし合わせてみたのも、2000年代以降日本人旅行者の激減した隣国の日常風景を、当ブームを端緒にもう一度、大づかみに共有・理解できないかと思ったからだ(メディアを賑わせる事件・事故や面白映像とは別視点で)。何度も指摘しているが、変動著しく広大な中国の社会現象を、専門家や記者が個人で全てカバーできる時代でもない。さらに、報道関係者は仕事の行きがかり上、ごく短い視程と最小限の切り口で現地情勢を伝えることが多い(そりゃ、何でもかんでも一時の流行を二、三十年のタームで解説するわけにはいかないだろう)。ただ、そうした個別の情報・考察の積み上げで中国のどでかい変化がストンと腹落ちできるかといえば、それもまた難しかろうというのが、ぼくの考えである。ネット通販と国潮(国風潮流=中国的デザインや国産ブランドを好む若者の消費トレンド)の二点で、この興味深い現象を片づけていいものだろうか。見たところ、漢服ブームはまだまだ中国全土で発展・波及しそうである。いわば現場発見者一人一人が、自分のポジション・経験値・言語センスによって、このブームについて軽く「自由研究」してみたらどうだろうか。多種多様な日本人が、それぞれの個性を引っさげて「多面的な中国」を考察・説明できてこそ、われわれ日本人が共有する「知中経験値」が格段にアップするのではないか、と思うのだ。そうした「新しい社会の仕様」が、当然日本にも生まれているのだから。あとは、われわれの「渇望」あるのみ。まずは隗より始めよ、という言葉もある。あるいは中国の街ナカで、唐宋の文人風衣装を羽織ってみるのもいいかもしれない。

(57)さあ、件(くだん)の中華風味の門をくぐり、木立(こだち)の中をゆけば、まもなく白塔に出会う。万寿宝塔と呼ばれるその塔は、嘉靖30年(1551)完成。八角七層、高さ40米(メートル)におよぶ石塔で、当地・荊州の権力者が皇帝の長寿を祈念して建立したといわれる。有名な蘇州の斜塔、虎丘(こきゅう)雲岩寺塔が同じく八角七層で48米だから、こちらは一回り小さい。なお、この塔は地上から生えているのではなく、地面にぽっかりと穿(うが)たれた穴にその基礎部分が築かれている。要するに、台座の上に構造物があるという「上げ底」ではなく、あべこべに地下から生えている「下げ底」の形なのだ。だから塔へ上るためには、一旦階段で基礎部分へと下りなくてはいけない。ところが嗚呼(ああ)無念、いまその階段は柵で閉ざされ、参観者の塔への立ち入りを禁じていた。塔の内部には8米の阿弥陀仏像があるとかで、なんとか潜り込みたかったのだが叶わなかった。仕方がないので気持ちをととのえ、外面を丁寧に眺める(なお執筆中も正確な調べがついていないが、塔は近年改修されている)。上層にいくほど極端に細くなっていく形状のため、虎丘の塔がもつ圧倒的な重量感には欠けるが、そのかわり遺跡というより美術品といった感じで、なかなかおしゃれである。新しい石積みの外壁には、各層各面に穏やかな顔をした仏像が嵌(は)め込まれ、これも塔の美しさを引き立たせている(全部で94体あるという)。じつは帰国後のことだが、この塔の80年代初頭の状態が中国動画アプリで視聴できた。その映像では、今と違って周囲は荒れた河原にすぎず、塔身はというと、ほぼ長江から丸見えであった。それどころか、塔の高い場所からは木や雑草が生えていたりもする(それはそれで趣のある姿なのだが、当時の素朴でワイルドな情景と比べると、現在のこんもりと緑地化された万寿公園は地上の楽園に等しいとさえ思えてくる)。ともかく灰白色の繊細な姿態は、その時代ごとに異なる光彩を放ちながら、長らく沙市のシンボルとして観る者の心を捉えてきたに違いない。そう、たぶん張居正然り。イザベラ・バード然り。

万寿園に到着早々、天女1号を発見。
上部へのすぼまり方が美しい万寿宝塔。各層のレリーフも見もの。
下部の構造はこのような感じ。階段を下りれば入場口へと至る。
時刻は9時半。時間調整は完璧だったが、あいにく検査期間中につき入場できず。

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