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自分の力を知りたいということについて。

いくつかご質問を頂きまして、何かヒントになればと思いnoteに向かっております。ヒントになるかどうかは分からないのですが、他にも同じように考えている方がいらっしゃるかなと思いましたので、書かせて頂きたいと思います。

Q.石がどのように自己と自分自身と関連しているのかを知りたい。

鉱物というのは何なのか、どういう存在なのか、というお題と、自己とは何なのかというお題、この両者を知って関連性が見えてくるのではないかと思います。その理解も知識の上での理解と知識でないところからの理解、知覚といえばいいのでしょうか、深さがあるような気がします。
どのような目的で知りたいと思っているのかという意識の方向によっても入ってくる内容は変わってくるのかなと思ったりしています。理由も分からず知りたいのであれば、おのずと現れてくるのだと思うのですが、知りたいという意欲に対して、明確な理由があるのであれば、それがどんな目的のためなのかを理解することは結構重要だと思っています。

Q.石がどのように力を貸してくれているのか、自分の思いこみではなく理解したい。

人間の感情には「快・不快」というのがありますが、これは過去の蓄積によって起こるとシュタイナーは語っています。もっというとこの人生だけでなく、全ての過去から。毎日、見るもの聞くもの触れるものに対して、心は揺れ動きます。「楽しい!」「嬉しい!」と思う感情にも距離を置き、「嫌だな」と思う感情にも距離を置くことで、その客観性との中間の状態から別の活力が生まれるとシュタイナーは言っています。でもそれは無感情になることとは別です。感じていながら、客観性も持つ、その同時にある状態が重要。これはなかなか難しいことだなと思っています。
この捉え方に対して勘違いしがちなのは、感情を否定すること。だからと言って、感情のままに従うだけで客観性を持つことを忘れるのは、自分の過去からの蓄積による習慣性に縛られている状態。同じことを繰り返すか、もっと自分の欲を強めるかになってしまう。中間であるということは、謙虚になっていくのだそうですが、謙虚であろうとすることとも違う。極と極を意識することで中間が生まれる。能力だったり力だったり、そういうものは差異を感じた後に現れてくるものなのかなと思っています。欲しいと思っても得られるものでもなく、欲しいという衝動がなければ探求も始まらない。

誤謬(ごびゅう)は、対象とくっつきすぎること、客観性のなさから生じるような気がします。ある思考とくっつきすぎるとその思考は誤謬に走り、ある感情にくっつきすぎるその感情は誤謬に繋がり、知覚として捉えられる全ての物質、対象、それらにくっついて離れられないという状態が執着ですけれど、これが誤謬へと発展するというような理解でいます。客観性にも深みがあると思っています。執着、思い込みにも深みがあるように。
直感というのは、閃きのようなもので、これも中間の状態で発生するものなのだそうです。印象を過去からの認識で、ああいつもの日常ね、と、捉えるのが通常の意識。客観性を持つというのは、自分の意識の力で印象を自分から引き離す作業。人の話が上の空という状態がありますが、それも一種の引き離された状態ではあります。それは印象から引き離したのではなく、別の印象に移っただけです。通常は大体が無意識に思考も感情も働いています。意識的に印象から離すということは、いつも見ている世界に対して、どれだけはじめて出会えるか、ということにかかっているのだと言います。野口晴哉も同じことを言っていたな。

何度も何度も読んだり耳にしたり確かめてきたことですが、この「毎瞬、いかに新しく出会えるか」はめっちゃ重要だなと思います。その状態に触れると、自分がいかに自分の世界にハマっていてかもよくわかります。あー、ってなります。見たいように見ていた世界。そうしか見れなかった世界。と同時にそうさせてしまっていた、恐れ、疑い、弱さ、無気力にも気づいてきます。これを知るのは自分の中から出て対極を意識する力になるのだと、シュタイナーは語っています。

何かヒントになればいいなと思います。

madoka

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