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Spotify「Michel Polnareff 20」

洋楽におけるぼくの初体験は、ほとんどが Michel Polnareff に捧げられています。生まれてはじめて全作品 (LP) を揃えたのも、人生初のライブ・コンサートへ行ったのも、また、意味の分からないフランス語で歌詞を丸暗記したのも、部屋中にポスターを飾ったのも、その対象は M.Polnareff。1970年代初めに日本で起こったポルナレフ・フィーバーは、中学にあがりたて (1974年) の感性にドンピシャの会遇をもたらしたのでしょう。振り返ると、まるで思春期の麻疹にでも罹ったかのように、ぼくは妄信的に/熱狂的にうなされていたようです。

M.Polnareff の魅力は「ロックとロマンの出逢い」というキャッチコピーそのものでした。ソングライティングが天才的で、楽曲は儚いロマンチズムに溢れていました。その美メロにふさわしい、ファルセットとの境目がわからない高音域がまた魅惑的で、巧みなピアノ演奏、トランペットの口真似、ルックス、過激な言動、どれをとっても抜群。日本の一般大衆にロック&ポップスのパッケージを届けるには、最高のアイコンだったのです。

ある意味、それはレコード会社の思惑の産物。プロモーションが見事に当たった、とも言えます。実際、当時のラジオにおける洋楽再生回数では、ビートルズ、カーペンターズ、と並んで常に上位でした。あの頃は、今日のように外タレ本国でのリリース状況がそのままダイレクトに日本へ伝わることはなく、版権を持つレコード会社が、良くいえば日本風にアレンジして、悪くいえば勝手に曲解して、日本のマーケットに卸していました。つまり、文化/音楽の翻訳者として一枚介在した、ということ。で、ソニーの営業戦略が「邦楽は天地真理、洋楽はポルナレフ」。

ただ、当時の洋楽あるあるで、版権の不統一が功罪をもたらした一面もあります。アルバムとシングルの優劣が、まだ不分明だったのもその原因でしょう。Polnareff の場合、本国フランスに合わせるため、スピード重視でシングルのみが先行発売されました。それが日本コロムビアやテイチクから出ていたので、1971年にデビュー盤がソニー (EPIC) から発売されたときには、個々楽曲のリリース年度がややこしくなっていました。1st収録の「ノンノン人形」が1966年にはもうテイチク版シングルがあったり、日本で1974年にヒットした「悲しきマリー」が実は1969年作だったり。おまけに、邦題のマズさも忘れられません。原題は無視してとにかくタイトルに「愛の~」を付ければいい、みたいな安直さ。やれやれ。

それもこれもひっくるめて、ドメスティック洋楽が根付いていた証しなのでしょう。つまり、Polnareff は日本のレコード会社がうまく偶像化/商品化してお茶の間に届けた成功例だったのですね。学生運動 (70年安保) の余韻が残るなか、ほどほどに過激で (本物のハードロックでは過激すぎ)、ほどほどに熱狂できる (69年ウッドストックでは熱狂しすぎ)、新しい外タレのアイコンは、エレキを弾くだけで不良だ、と言われた時代性をうまくオブラートに包んだのです。なので、思春期の麻疹が治ると、急に昨日までの自分自身がお子ちゃまに見えるのも無理からぬ話。

Purple、Zepp、Yes、ELP、ひとたび本物のロックに目覚めるや、ぼくのポルナレフ病はいっぺんに消えてしまいます。サウンドそのものが「お茶の間ロック」に思え、あれほど神聖視したヘアースタイルやサングラスといった彼のシンボルは、わずか数日でダサいファッションに早変わり。

ただ、この思春期の麻疹は、同時に~三つ子の魂100まで~にも当て嵌まったのです。これが「一生もの」の財産に繋がります。

最大の財産は、やはり美メロ観の形成でしょう。麻疹に罹患中 Polnareff はすでに完成していたので、その音楽的変遷にぼくが付き合うことはなかったのですが、逆に美メロのなんたるかを全部教えられたように思います。70年代初頭の洋楽状況と照らしても、サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、ビートルズ、そこにポルナレフが加わって、はじめてぼくの耳のコア部分は完成した、と言っても過言ではありません。後年「おまえが好きなヴォーカル、みんな特徴的やな、女っぽいな」と言われてハッとしたものです、これもポルナレフ病の後遺症か、と。

ライブの楽しみ、特に光と音の演出を教えてくれたのも Polnareff です。数年後には Genesis の来日で桁違いのライティングに接しますが、いまでも鮮明に焼き付いているのは初体験のほう、すなわち Polnareff の1975年ライブなのです。オープニング早々「ラーズ家の舞踏会」で荘厳なオルガンとともに登場した Polnareff。スポットライトが当たり、曲が進むと、途中ピタッピタッと凍りつくストップ・モーション。赤や緑のライトが合わせて切り替わり、主役を照らします……。それが歌舞伎の見得のように決まり、ぼくはもうドーパミンの横溢状態……。

また、人生初の外タレがフランス人だったのは、想像以上の恩恵があったように思います。英語圏が主流のロック・シーンにおいて、発音も、ニュアンスも、その易しさは仏語の比ではなかったのですから。そして、思わぬ副産物が、ワールドミュージックへの橋渡し。20年後、世界がぐんと縮まり、ワールドミュージックの脈絡でシャンソンを見直したとき、そこには Polnareff との幸せな再会が待っていたのです。かつてのブーム時は「フレンチポップスのスーパースター」という触れ込みで、ことさらにシャンソンとの対比を強調しましたが、字義どおりなら、フレンチポップスも立派なシャンソンです。そういう意味で、Polnareff はフランスの国民的スターであり、シャンソンの革命児だったのは間違いありません。

ストレートに聴けば、甘いシャンソニエの本質は曇りません。「洋楽」という言葉ほど、ドメスティックなジャンルもなかったわけですね。



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