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【今更だけど】「NARUTO」から見る夢の目指し方

はじめに

小学生の時、クラスでは「NARUTO」派と「ワンピース」派の派閥があって、時折思い出したように「どちらが面白いか」という議論が繰り広げられていた。わたしは「NARUTO」派で、海外での売れ行きを根拠に「NARUTO」の方が面白い。と主張していたわけだが、まぁ今となっては「ワンピース」方が一般認知度も高く、シリーズ累計売上も高いわけであり、勝手に「負けた」ような気がしている。しかしながら、今もどちらが面白い漫画かと問われれば、「両方面白い漫画である。」と答えよう。それは事実であるし、例えば授業の選択を「日本史」と「世界史」どちらにするのかくらいの違いで、どちらにしても学校は卒業できるし、必要な教養である。というところから「日本史」と「世界史」のどちらが大事かと論点を挿げ替えることでと煙に巻いてしまえばおそらく「負けた」ことにはならないだろう。「物語」については、その審美眼においても、少なくともクラスで一番程度でなければいまだに気に入らないのだろう。へんちくりんなプライドである。

「物語」は大人になって見直すと違って見えることがある。また、物語全体を通して読むことでその改めてそのテーマ性に気づくこともある。そこで先日「NARUTO」を読み返した際にそのテーマの一部分である「夢の目指し方」について考えたことを記したい。

「夢」・「目標」

本作の主人公「うずまきナルト」の夢は「火影」になることである。「火影」はいわば忍の頭のようなもので客観的には国家における軍事的トップというところだろう。だから実はこの更に上の役割を担う「大名」という存在があるのだが序盤はそれは明かされず、読者の理解は主人公のナルトと同様に「火影」=「一番強い忍者」として認識される。

では、なぜナルトが「火影」を目指すのかというと、彼が「誰からも認められていない」からだ。両親もおらず、体内には九尾の狐が封じられた彼は、それが暴走することを恐れ、同じ里の人間からは避けられたり、腫れもの扱いをされたり、蔑まれたりしていた。だから彼はイタズラによって大人たちの気を引いていたのである。だからこのときの彼は「火影」=「一番強い忍者」→「みんなから認められる」という認識で「火影」を自らの夢として語る。「認められたいから一番強い忍者になる」というこの構図は、ちょうど「パン屋」=「身の回りにパンがたくさんある」→「パンがたくさん食べられる」という「パンがたくさん食べたいからパン屋さんになる」という構図に当てはまる。こう見てみるとナルトの「火影」になるという夢は非常に単純な考えで幼さを感じる。だからこそ作中序盤では何度もその夢を否定されるのである。

「火影」とは何か

では実際に「火影」とはどのような存在なのだろうか。それは、「大人が子どもや仲間を守ることによって社会が持続されていくこと」という「火の意思」の体現者だ。「火の意思」をこのように定義づけた根拠として、三代目火影の「大切なのはこの里の者みんな」といった発言や、奈良シカマルが飛段・角都編で見せた「玉は子どもたち」という考え方がある。このあたりの「玉は子ども思想」を評価されて忍界大戦時にはテマリから「火影にもなれる」と評価されたのではないだろうか。ちなみに師匠である自来也を失ったナルトを励ましながら、「玉は子ども思想」と「世代交代」を告げるのも、また、火影になったナルトの補佐を担うのもシカマルである。(キャラクターとして作者と読者に無茶苦茶愛されている。)

つまり「火の意思」とは「仲間と子どもたちを守る志」であり、「木の葉の里を守る意思」と言い換えることもできる。その代表者、体現者、あるいは象徴として存在するのが「火影」なのである。

話が少し逸れるが、ダンゾウも物語終盤のうちはサスケも「木の葉を守る」という志については問題がない。しかしダンゾウの場合では他里への攻撃性の高さ、サスケの場合は自らの死後、不老不死になったとして君臨し続けたときの社会の不安定さといった点から、構築した社会の「持続性」に不安がある。つまりは「木の葉を守る」上での方法に問題があるのは明白である。

血統ではなく「親」

ナルトの父が四代目火影であることは、ジャンプ漫画における血統主義と捉えられがちであり、実際構想時には(キャラクターデザインも含め)ナルトと四代目に血のつながりがあったほうが人気が出ることを踏まえての設定だっただろうが、ここにもナルトの成長に必要な要素が含まれていると思われる。この点にも触れたい。

「木の葉の里」は前述した「火の意思」を受け継ぎながら続いてきた。ナルトも「火の意思」とはどのようなものであるかを理解する必要があるのだが、二部以降のナルトに欠如しているのは「守られた経験」である。(一応霧の中忍に襲われたときに、はたけカカシに守られているが描写として重みがないため今回は考慮しない。)唯一、白との戦闘の中でサスケに守られている。だからこの時点からナルトはサスケとの「つながり」を感じはじめ、以降、強く固執している。一方で元来の「認めらたい」という思いも強く、同世代の忍として並び立とうと成長するのである。その後ナルトはどこまでもサスケに固執し、ペイン襲来後もサスケが指名手配されることに対し、政治的な思惑があるとはいえ、里の同世代が諦めているにもかかわらずナルトは諦めない。「仲間として守る」という意識が色濃く出ている。

一方でナルトには仲間として認識されていない人物やかかわりのない子どもたちを守る理由がない。物語序盤でナルトを煙たがっていた大人たちや木ノ葉丸以外の子どもたちはある意味で守ろうとする理由がないのである。だから守るための理由を読者に提示する必要があり、この場合「守られた」ことが「守る」という発想につながっていくはずである。つまりここで大事になってくるのは「守られていた」転じて「大事にされていた」という事実がナルトにあったかである。

そこでまず、自来也の死が意味を持ってくる。ペインとの戦いで自来也が死亡した後、ナルトは仙人モードを会得するための修行に入るのだが、当初は敵討ちや自分に降りかかる火の粉を払うという意味合いが強かっただろう。しかし、自来也が残した「ド根性忍伝」を読むにあたって自らが「期待されていた」≒「大事にされていた」と認識し始める。だがこれだけでは、まだ「里を守る」という理由には若干乏しい。

ペインとの戦闘の中でナルトは暴走し、九尾の狐の封印が解けそうになってしまう。それは物語上の流れということもあるが、「里を守る」ことより「敵を倒す」ということに重きが置かれているからで、敵を倒す方法を選ばない、復讐のために感情のコントロールが効かなくなっている状態である。そこでナルトの意識世界に登場するのが四代目火影であり、彼がようやく「里を守る」ことに明確な理由を持たせてくる。それは、自来也同様「期待」であるが、直接的に血縁のある「親」からのそれは「大事にされた」とするのに十分な根拠になるのではないか。また、九尾の狐を封印することで我が子と里を同時に守ったという四代目の行為が、その息子であるナルトも自然に「里を守る」という行動に導くものであるだろう。父が為した仕事を同様に息子も為すという構図が出来上がる。

里を九尾の狐から守れる人物になるとそれは里の最高戦力であり、「火の意思」の体現者である「火影」である必要があった。だから四代目火影がナルトの父親であったのは、ナルトの血統性を示すためだけの設定ではなく、ナルトが父親と同じように「里を守る」ために、そしてそれを超えて「世界を守る」ように設定されたものだったのではないだろうか。

ナルトの目標の変化と「夢の目指し方」

ペイン撃退後、ナルトは里の皆から評価されているという事実を聞いて、困惑している。火影になることが目標である彼であれば、むしろ「認めれられた」事実に喜びそうなものであるが、むしろ驚き戸惑う。それはナルトが決して認められるために行動してきたのではない。という点が大きい。「サスケ奪還編」以降物語後半のナルトの言葉の中には「火影になる」という夢を語る場面が非常に少ない。それは「サスケを連れ戻す」・「暁を倒す」という二つが目標として存在するからである。(実際綱手編の「火影は俺の夢だから」以降夢を語ってキメるコマはないはずだ。)その二つの目標に対して必死に行動してきただけであるにも関わらず、本来の夢であった「火影」に近づいた。だからこその戸惑いがそこに見られる。

ナルトがいずれ火影になることは、「ペイン撃退」という業績を為し遂げた、つまり「里を守った」という事実から考えれば、里の人間としては当たり前の評価でもある。「火影」が「里を守る」という「火の意思」の体現者であるということはすでに述べているが、強大な敵から「里を守った」という事実があるナルトはすでに里の者からいずれ火影になることを期待される人物に既になっているのである。

さて、ここに夢の目指し方として示されるのは、言ってしまえば「とにかく目の前のことを精いっぱい頑張ること」ではないか。「火影」とはどのような存在であるかを分析してきたが、これは大谷が「素晴らしい選手」とは何かを分析して曼荼羅を書いたように、定義づけとそのための課題を具体化し、解決方法を挙げる行動で、ナルトの場合は「火影」(目標)=「里を守る」=「仲間・子どもたちを守る」(具体化)そのためには「力」が必要である。「力」=「新しい術を会得すること」「九尾の力をコントロールすること」「仙人モードを会得すること」(解決方法)となってくる。しかし、ナルトはそう自覚して「力」を求めたわけではなく、あくまで先に挙げた二つの目標であり、(仙人モードに関しては自来也の敵討ちとしての側面が強い。)別件の解決のために強くなったのである。

だからこそ、人として夢を叶えるためにはナルトのように、自分の思うままに精一杯頑張ることが重要なのではないだろうか。暁を倒すこと、サスケを取り戻すことを目標に修行を重ねたナルトはまさに「結果は後からついてくる」という状態だ。夢をもって努力していく中で挫折しそうになることもあるだろうが、大切なのは目の前の物事を解決しようとすること。その積み重ねの上に、気づけば夢を叶えているという状態が待っているのではないだろうか。

おわりに

何かとネットではネタにされている「NARUTO」だが、(実際「やはりうちはマダラか」のシーンは違和感満載で読み返すたびに面白くなってくる。)大人になった今読み返すことで作者の岸本斉史先生の社会に対する考え方、あるいは「大人」としての心構えのようなものが見えてきたような気がする。
もっと色々なシーンについて言及するべきだろうが、たたでさえ本論がぶれてしまっているのを感じているのに色々なところにずれるのは良くないと思って、というか書き終わらない気がして諦めた。(エビスがナルトを認めてかばうシーンについても触れたかった。)
何だか長々語ってきたわりに、結論が短絡的で説教臭いなような気がするが、当初導きたかった結論ではあるのでそのようにまとめた。何だか尻すぼみの感がある。評論文や批評文(今回はかなり感想文だが)を書く上での修行として今後の反省に活かしたい。また、完結済みで長編作品となればある程度仕方ないとは思うが、想定よりも長くなりすぎたので、(約4700字)もう少し短い文章をいくつか連発できるようにしたい。数日掛けて書くのはちょっとしんどい。長々と駄文でお目汚し失礼しました。

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