痛いやつだけど、書き続けるぞ
「正月休みで暇な時間が与えられたから、いろんな方の記事をたくさん読むぞー。」
そんなつぶやき投稿を昨日しました。
そしたらあるフォロワーの方が「自分自身の記事も読んでみては」とコメントして下さりました。
「たしかに。去年、記事をたくさん書いたけど、自分の記事は振り返ってなかったなぁ。」
「恥ずかしいけど、振り返って読んでみるか。」
そう思い、過去の記事を懐かしみながら、振り返っていた。
「…ん。」
「ちょっと待って。」
「自分の書いてることイタくないか?」
「なに一丁前にカッコつけてんだよ。」
「うわっ、これは恥ずい。」
これらの感情が一気に押し寄せてきました。
俳優の方の中には、自分の演技を見るのが恥ずかしくて、自分の演技が見れない人がいるそうです。
僕の場合は恥ずかしいを通り越して、「こいつ痛っ!」って感じてしまいました。
まだ人生経験の浅い若造が、人生などの深いテーマについて持論を自由に述べてるんだから、痛いと思われるのも当然かもしれない。
それもなんか哲学っぽい感じで持論を展開してるから尚更だ。
自分でも痛いと感じるんだから、読者はさらにそう感じてるかも。やばいやばい。
そういえば一度ネットで知り合い、リアルで会った人に、勝手にnoteの自分の記事を読まれたけど、「良いことを書いてそうで、大したこと書いてないね。」って言われたな。
傷ついたけど、このネッ友の一言に凝縮されていた気がする。
「良いことをカッコつけて書こうとしてスベってるなんて、一番痛いやつじゃん。」
過去の記事を振り返って、冷や汗が出てきた。あつーい真夏でも、体を一瞬で冷ますほどのね。
羞恥心感じまくりですが、僕はそれでもnoteを書き続けようと思います。痛いやつだと思われても、このスタイルでいこうと思います。
だってね、このスタイルじゃないと続けられないから。小説や、面白いエッセイを書くことは僕はできません。
だけど深いテーマ(感情とか人間など)について考え、それについて書くことは、ずっと続けられる気がする。
実際けっこう忙しい日々でも、スキマ時間を見つけて書いていた。それぐらい、好きなのだ。だから今も続いている。
たぶん、書くというよりも考えることの方が好きなのかもしれい。そして、どうしても記事の雰囲気が、堅くて重い感じになってしまう。
本当はユーモアあふれるエッセイを、書きたいですけどね。その才能がある人を、うらやましく思います。
何かの本で、「アウトプットしてはじめて、何かを考えたと言えるのではないか」と書かれていた一文を読んで、なるほどと膝をピシャリと打った。
ただ頭の中でうんうんと考えるのは、悩んでいるだけだと。
書いてみる、話してみるなどのアウトプットをしてはじめて、考えごとをしていたと言えると。
頭の中に思い浮かぶものは、絶えず揺れ動いていますからね。何かを説明しようとした時に頭の中には思い浮かんでいるけど、上手く説明できないことはよくありませんか?たぶんあれと似ています。
僕は深いテーマについて考えたくて、そのために書いているのだと思いました。
でも考えていることがまだ浅いので、自然と文章も痛くなる。
もっと人生経験が増えていく中で、マシな文章になっていくかもしれない。
そうなるまで、痛い文章であっても考えたことは、どんどん文章に昇華していこうと思う。
もしかしたら、今しか書けないことかもしれないし。人間の感性って変わっていくので。
しばらく痛い文章が続くと思いますが、どうぞ今年もよろしくお願いします。
実家の丹波市は黒豆が有名なんですけど、その黒豆を煮たものが美味すぎます。正月に食い過ぎちゃった。
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