「希薄な人間関係」はわるいことではない
おはよう! 今日も書いていこう。今日は「希薄な人間関係」について書いていきたい。
「人間関係が希薄になった」と言われて久しい。人間関係が希薄ではいけないの?本当に大事な関係は、そんなには多くないものなのでは?だからこそ大事にするべきなのだろうけど。
私は、友達が多くない人生だ。学生時代はそうでもなかったと思うが、今はもう疎遠になってしまった。社会人になってからは、仕事に関連して会う人たちも「友達」という感じではない。このことは、みんなある程度同じ想いなのではないかと思うけれど、友達の多い人の人生を生きたことがないので分からない。
いまの人生に満足しているかと聞かれれば、満足はしている。それなりに恋もしたし、仕事もそれなりにこなせている。”食べるのに困っている” というわけではないし、家庭も持つことができた。満たされないモノはあるけれど、それは友達が埋めてくれるものではない部分のものだ。
自分の子どもにも、友達を多く持ってほしいとは特に思わない。多くの友達との付き合いで疲れてしまうよりは、自分を大事にして、まずは自分がやりたいことをやる、自分を優先させる。「自分」を確立した上で、その自分が合うと思う人と友達になれば良い。
東日本大震災のときから、「絆」という言葉が多く使われるようになった。なんとなく、「そうだよね」と、反対する人はいない言葉と思うが、その中身については、私はうまく分からない。どういう状態が「絆がある状態」なのか。
毎年の災害訓練に参加していれば、有事の際に助け合うことはできるだろう。そのための訓練だし、訓練だけでは日常的な繋がりではないかもしれないが、段々と顔見知りになる。そうした状態は「絆がある状態」ではないのか、線はどこで引かれるのか。
希薄な人間関係が増えているのは、社会が成熟したということだ。先進諸国ではこうした状態が広がっている。途上国では見られない状態だ。
ただ、イギリスでは孤独から引き起こされる問題を国が解決すべき社会問題と捉えて孤独を担当する大臣が2018年から置かれ(2021年まで)、日本も2021年から担当大臣が置かれている。
こちらでいうところの「孤独」というのは、人々の生活を蝕む状態にある孤独(孤独を苛んでの自傷だったり、"絆" を求めた結果、犯罪に加担させられたり)であって、私が先に書いたようなもの(友達が少ないこと)とは別の状態だと感じている。
こちらのほうは、生活を蝕む、というわけではなく、家庭や職場など、社会的な繋がりはあるのだけれど、それぞれが独立している、自立していて、寄りかかってはいない、そんな状態。
生活する以上は、直接的でなくても、人は誰でもみんないろいろな人と繋がって生きている。
自分達が食べるものを作ってくれた農家、それを運んでくれた運送業者、それを販売してくれた小売業者。 駅までいく自転車を組み立ててくれた人、駅から乗る電車を運転してくれる人、会社の中を清掃してくれる人、社員食堂でご飯をよそってくれる人。
そうした人との繋がりに気付き、そうした人たちと繋がり合いながらも、過度な干渉はなく、自分自身にとっても心地よい範疇にある関係。
結局は、自分自身の心の持ちようなのかもしれない。端から見て、孤独でしようがないように見えても、その人自身はすごく充実した生活を送っていたり、一見、周りにいつも大勢の人がいて人気者に見えるのに、実は心の奥底が孤独で満たされていたり。
孤独なら孤独なりに、友達が少ないなら少ないなりに、そんな自分を認めてあげて、愛してあげて。ときには笑い飛ばしたりして、一度しかない人生を進んでいく。
この世界にはたくさんの人生があって、それぞれが違う。違うということは力だ。一人ひとりにも、一人ひとりが集まるこの社会にも、いろんな可能性があるということだ。
一人ひとりがそれぞれの人生を生きることで、社会が回っていく・進んでいく。
私も、あなたも、今日もまた、いろんな人との"繋がり" に気付きながら、生きていこう。
今日も読んでいただきありがとうございました。
自分の「考え方」「世界の見方」が変われば、世界のほうも変わっていく・変わって見えると思っています。
今日も、自分を変えよう!
今日も、世界を変えよう!
それではまた。
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