池の回り一周(浅野浩二の小説)

今となっては昔の話だが、小学校五年生の春のことである。私は祖父の家で一時期を過ごした。一時期、といってもほんの二、三ヶ月である。
 ある時、厳しい祖父がめずらしくも車で広い公園に花見に連れて行ってくれた。二人の親戚が一緒で、私はオマケみたいなものだった。あらかじめ連絡をとっていたらしく、公園には車で祖父の親戚の人が数人きていた。遠い親戚なので私にとってどのような関係なのかもまったくわからなかった。ふだんはなかなか会える機会をもてないので花見が久闊を叙すよい理由となった。私はオマケのようなものである。公園には遠方が見えないくらいの大きな池があった。親戚と祖父は何か大人の話があるらしく、私は何をするともなくポツンとしていた。すると、向こうから来た人達の中の一人の女性が、
「ねえ。池を一周してこない」
と言ってくれた。私はこの誘いに、わが耳を疑うほどのうれしさを感じた。女と話しながら歩く、という経験など一度もしたことがなかった。引っ込み思案で友達付き合いといえば、少数の、自分と同じような内気な男の友達、数人くらいだった。
 彼女は私の肩に手をかけて、ピッタリ寄り添うように歩き出した。彼女のあたたかい手の感触に私は夢心地のような気分だった。彼女の顔をまともに見ることも恥ずかしくて、私は何か申し訳なさ、さえ、感じていた。私は彼女が、たのまれたので、お義理で子供の相手をしているのだろうと思った。どう考えても、私は自分が女に相手にされる要素など何一つない、ということには子供ながら、絶対の確信を持っていた。器量に引け目を感じていたし、性格も内気で暗かった。性格が、神経質で、人の言葉を単純に信じるということは絶対出来ず、人の言葉の真偽を絶えず揣摩憶測する習慣が自然についていた。
彼女は私の手を握ったり、後ろから抱きかかえるようにしてみたり、さかんにスキンシップする。女の柔らかい体の感触を背に感じ、私はボーとした気分だった。彼女は自分の方からは、話さず、私に話題を求めてきた。私は彼女がどうしてこんなに親切にしてくれるのか、不思議で仕方がなかった。彼女の温かい言葉やスキンシップが、どう考えてもお義理のものとは感じられなかった。いったい、なぜ、彼女が私にこんなに親しくしてくれるのか不思議で仕方がなかった。もしかすると彼女は、保母さんのような、子供を相手にする仕事を希望していて、子供をうまく相手にする技術の練習のために私に親切にしてくれているのでは、とも考えた。ほかに考えようがない。私が何か言うと、
「フーン。すごいねー」
と相槌をうってくれる。理解できない人間の心理というものは気味が悪いものだ。私は何か、分不相応に感じ、どうでもいい子供ためにこんなに時間を割いてくれる彼女に申し訳ない気持ちさえ起こって、
「時間だいじょうぶですか?」
と、おそるおそる聞いたが、彼女は、
「もうちょっと、こうして行こうよ」
と言って、二人だけの時間を出来るだけ長くしようと、歩を遅くしている。

子供の頃はイヤな思い出ばかりで、あの時の見知らぬ女性との、池の周りの一周が、ひときわうれしい思い出として残っている。

大人になった今、考えればなんのことなくわかる。女が性的快感を得るためには男の存在が必要なだけだ。私に、かわいさ、を感じてはいなかっただろう。しかし私は子供の頃から過度に神経質で、疑い深く、現実と食い違うほど低く自分を自己採点していたことに気づかされた経験も何度もあった。彼女が私をどう思っていたかは、わからない。しかし、ただ一つ彼女も私に魅力を感じた点もあったのだろう。それは、私が内気で無口で、この子になら何をしても、何を言っても、心の中にしまいこんでしまうだろうから、何をしても安全だろう、と思ったに違いない。実際、私は、人間のおしゃべり、というものを嫌っていて自分の心にしまいこんでしまう性格である。

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