羽生善治(浅野浩二の小説)
あるキビしい試験前だったから、私はほとんど新聞もテレビもみる、読む、時間がなかったので、H名人という存在も七冠王という、こともピンとこなかった。私は将棋はルールを知ってて、ヘボ将棋で負けることくらいならできる。小学校の頃は少し、ヘボ将棋を友達と楽しんだ。そして橋本首相から総理大臣賞、だったかな、をうけとり、橋本首相と握手して、今総理は、住専問題でクタクタである。H名人に、何かいい手はないかね。ときいて、H名人が、将棋のことならわかりますが、政治のことはわかりません。と言った、と新聞にのってて、いかにも世人をよろこばせそうな答えであり、又、世間も彼の答えにこの上ない、安心感を、感じるのだが、あれは本心ではなかろう。彼ほどの電光石火のような思考力の人間なら、誰よりも深く世間もよめるはずだ。能ある鷹は爪を隠しているだけにすぎない。将棋小説の、真剣士、小池重明が大ヒットしたが、私には真剣士よりもプロの高段者の方がもっと真剣勝負を生きているように見える。というのはアウトローである真剣士は負けても恥にも黒星にもならなく、強気で勝負できるが、プロの高段者にとっては負けは命とりで、プロ棋士というのは耐えず命のかかった極度の緊張の綱渡りをしているように門外漢の私には見えるからだ。彼は若いのに、羽織袴に扇子をもった姿がファシネイティング。
彼がきれいな女優さんと結婚することになった。とても有名な人らしい。私はテレビをあんまりみないから、よく知らない。でも、その結婚を妨害するような電話が多くあったらしい。彼女のファンかな。よく知らない。私はこれで小説がつくれると思った。
披露宴がおわった後、H名人は言う。
「僕、将棋のことしかわからないんです。」
彼女は、微笑んで、
「私、ドラマの演技のことしかわからないんです。」
H名人、子供っぽく笑う。
彼女、「でも私たちって、とても相性があうような気がします。」
芸能人は世俗の垢にまみれて生きてきた分、社会を知っている。役者が一枚上である。
彼女、いたずらっけがおこって、
「あなたが王座からおちたら、私、浮気しちゃおうかなー。」
と独り言のように言う。この時、H名人は、「エエーそんなー。」とはいわないのである。彼はコチコチに緊張してしまって、
「ハ、ハイ。いつまでも王座でいられるよう、ガンバリます。」
と言う。彼女はくすくす笑って、
「ジョーダンよ。ジョーダン。ジョーダンもわからないんだから。しかたない人ね。まったく先が思いやられる…・。」
「えっ。先が思いやられるってどういうことなんです?」
「いや、いいのよ。何でもないのよ。一人言よ。一人言。深よみは将棋だけにしといて。」
そう言えば、H名人は、橋本首相に、泰然自若と書いた色紙をあげたというように記憶している。人は自分のもっていないものを銘とするから、泰然自若を銘とする人は、気がちいさい。
H名人、「あんまり、いじわるいわないでください。」
という。面持ちに影がさす。いれかわるように、彼女はうれしくなる。彼女は聞いた。
「あなたは将棋について、どう思っているのですか。強い人がでてくるのがこわいのですか。あなたの将棋観を教えて下さい。」
「僕はつよい人と勝負することが好きなんです。そして、勝負している時は、もう負けたくない、とか、何としてでも勝たねば、なんて感情はありません。もう自分というものがなくなってしまってるんです。ただただ、相手の指した一手に対し、それに対する最も有効な手は何か、ということが、意志と無関係に瞬時に頭に入ってきます。一手一手が無限の勝負です。だから勝ってもそれほどうれしくないです。気がついたらいつのまにか七冠王になっていたんです。」
「あなたは絶対だれにもまけないわ。あなたなら一生日本一だわ。」
彼女は語気を強めて言った。
「どうしてそんなことがわかるんですか。強い人はこれからもでてくるでしょう。」
彼女はそれには答えず、少しさびしそうに、うつむいて、
「くやしいけど、私も勝てないわ。」
と、つけ加えた。
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