野田イクゼ(浅野浩二の小説)

駅のポスターに医歯薬系の予備校「野田イクゼ」のポスターを時々見かける。その予備校出身者で国立の医学部に入り、今は某科の医者になっている30半ばの白衣のドクター姿の写真がある。何人か別の人の写真があったが、みな何か元気がなさそう。彼らがむなしさを感じるのはきわめて当然のことである。
医者なんて、なんら知性的な仕事ではなく毎日、毎日、おんなじことの繰り返し。封建制の医局の中から死ぬまで抜け出せない農奴である。領主は主任教授である。夜逃げでもしたら死罪である。毎日、ヘトヘトに疲れて、帰りに焼き鳥屋のおやじにあたる。
「おう。おやじ。医者なんてのはなー。これほど惨めな職業はねーんだぞ。わかるか。わかるめえ。息子を医者にしようなんて間違っても思うなよ」
と言うと、焼き鳥屋のおやじは首をかしげつつ、
「そんなもんですかねえ。私には大先生様に見えますが・・・。でも先生がそう言うんですからきっとそうなんでしょう」
「おう。おやじ。わかってくれたか。」
と言って野田先生はビールをがぶ飲みし、焼き鳥をやけ食いするのであった。するとおやじは、
「先生。あんまり飲みすぎるとよくないんじゃないんでしょうか」
と忠告するが、
「べらんめえ。そんなセリフはオレが毎日言っていることだ。この程度じゃアルコール性肝障害にゃあならん。オレはもう焼き鳥食って鳥にでもなっちまいたいくらいだぜ」
と、おやじにあたり、勘定を払って、千鳥足で家路に向かうのであった。
彼の家は二駅離れのところにあるマンションだった。彼は同期で麻酔科の医局に入った女医と卒後二年で結婚した。彼女は当然のことながら専業主婦になった。
ドンドンドン。
「おう。帰ったぞ。」
「お帰りなさい。あなた。また飲んできたのね。あんまり飲むと体に・・・」
彼女の忠告をよそに野田先生は、またビールを飲んだ。
「お前は侵奇で子供もできないし。生きてても教授のいいようにされるだけだし・・・生きてても酒飲むことくらいしか楽しみなんかねーじゃねえか」
野田先生は彼女に訴えるように言う。彼女もしょんぼりしている。
「お前は何のために生きているんだ」
と捨て鉢に聞くが、彼女は答えない。彼はつづけて言った。
「おう。野田イクゼのポスター、みんなから評判悪いぜ。疲れた表情してるって。オレんとこへポスターの依頼があった時、お前が勧めるもんだから、出たが、体裁悪いじゃんか。イクゼの入学希望者も減っちまうぞ。何だってオレを勧めたんだ」
と言って、グオーとそのまま寝てしまった。

   ☆   ☆   ☆

翌日になった。日曜だった。彼は昼ごろ、目をこすりながら起きてきた。食卓に着くと、そこには彼女のつくった目玉焼きとトーストと温かいミルクがあった。二人は向き合って黙って食べた。野田先生は彼女をチラと見た。そして心の中で、彼女が何のために生きているのか、また、疑問に思った。食べ終わると彼女は彼に言った。
「野田イクゼのポスターね。私の生きがいね」
と言って彼女は立ち上がり、窓に手をかけた。その口調には信仰者の持つ晴れがましさがこもっていた。
「私、思うの。きっとあのポスターをみて、私たちのことを小さな小説にしてくれる人がいると思うの。もしそうなったら、私たち、その小説の中で永遠に生きられると思うの」
彼女の頬は上気し、目は美しく輝いていた。新緑の風が少しばかり彼女の髪を乱していた。

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