潮騒(浅野浩二の小説)

初江は入社一年目の夏、みなが太陽を求め、海外へ羽をのばしにいく話を楽しそうにしているのを、ポツンと一人、黙って聞いているような子だった。同僚の、くったくのない笑顔の中にはどうしても入れなかった。退社からねるまでの時間も一人さびしいものだった。ゴハンを食べ、テレビをみて、風呂に入って眠る。その繰り返しの毎日。休日、渋谷や新宿へ少しお洒落してショッピングへ行くことくらいが単調な生活の中でのささやかな楽しみだった。結局はさびしい夕暮れとともに帰路につくことがわかっていても・・・。たまに彼女に話しかけてくる見知らぬ男もいた。そんな状態でむかえた一週間の夏期休暇だった。どこでもよかった。自分の存在の無意味さに耐えきれず、あてもなく電車に乗った。終着駅につくとローカル電車にのりかえた。そしてその終着駅で降りた。そこはさびしい漁村だった。薄曇りの天気だった、が、時おり雲間から夕日がもれる。少し寒さを感じさせる潮風に抗して彼女は海の方へ近づいた。
海は時おり日の光をうけてきらめいている、はてのない水平線が彼女をいざなった。その景色は今の彼女の心をそのまま表していた。彼女はさびれた漁の小屋に身をもたせた。
夕日が水平線に達しても彼女はそこをはなれられなかった。
「もし今、自分がこのままいなくなってしまえば・・・」
ふとそんなことを思っていた時だった。
「もし」
誰かが後ろから声をかけた。初江はふり返った。浅黒い、がっしりした体格の若者だった。だまっている彼女に若者は無遠慮に話しかけた。
「君。今日とまるところまだきまってないんだろう」
黙っている初江の手を若者はつかんで言った。
「だったら僕の所にきなよ。たいした所じゃないけど」
初江の了解もとらないまま若者は彼女の手をひいていこうとする。力が強いので抵抗することが出来ない。不安を感じだした初江は、
「はなしてください。私、旅館にとまるお金はありません」
と言った。若者は、どこふく風、と相手にしない。
「だったらアルバイトで旅館の手伝いしてよ」
電灯がちらほらつきはじめた。気の小さい初江はことわることが出来ない。それに相手の若者も朴訥だが悪い人間には思えない。やむなく初江は彼に従った。
「君、名前は」
「・・・初江」
「僕は新治」
旅館へつくまで新治は一方的に自己紹介をした。彼は父がいず、母親と旅館を営んでいること。夏は海水浴客でにぎわうが、他の季節は海釣りする釣り人のための船宿となっていること。などを話した。初江は黙って聞いていた。
旅館につき新治はいきおいよく戸を開けた。
「ただいま。かあさん」
「おかえり」
母親は新治のうしろの初江に気づくと、すぐ丁寧に、
「いらっしゃいませ」
と、言っておじきした。新治は母親に、彼女が客ではなく、金がないため、住み込みのバイトをさせてくれないか・・・とたのまれて、連れてきた、と説明した。うつむいている彼女を新治の母親はしばし思案げにみていたが、その表情はすぐに気持ちのいい笑顔にかわった。
「たすかります。じゃ、さっそく」
と言って母親は初江を厨房へ連れて行き、あらましを教えた。言われるまま初江は洗いものをした。母親はどの食器はどこ、と、丁寧に教えた。初江は内気だったが、のみこみがはやい。仕事も雑ではない。旅館には一組の客がいるらしい。にぎやかな話し声が聞こえてくる。新治の母親は、彼らが東京から来ている四人の釣り仲間だと初江に教えてくれた。なんでも役員クラスの人達だという。新治の母親にたのまれて、初江は配膳することになった。初江は、
「それは」
と言って断ろうとしたが新治の母親は初江に善をわたしてしまった。部屋からは釣り人達の今日の漁の収穫らしい話がにぎやかに聞こえる。初江が声を震わせて、
「失礼します」
と言って部屋に入った。すると一同の笑い声が一瞬ピタリと止まった。緊張から食器がカタカタなっている。もう少しでこぼれそうになった。あぶなっかしい。
「ありがとう。腹ペコペコだ」
一人がさりげなく言った。初江は無事、配膳をおえると、
「失礼します」
と言って部屋を出た。内心胸をほっとなでおろした。新治の母親は刺身のきりかたやもりつけも教えてくれた。その晩、初江は釣り人の釣った鰈をおかずにご馳走に近い夕食をうけた。新治が初江に用意してくれた部屋は海の見える四畳半の部屋だった。初江は風呂にはいって、床についた。アルバイトという感じがまるでしない。まるで自分が客のようである。見知らぬ場所ではなかなか寝つきにくい初江だったが寂しげな潮の遠鳴りを聞くともなく聞いているうちにいつしか心地よい眠りがおとずれた。
 翌日、初江が新治の母親に自分のするべき仕事を聞いた。が、母親は特に何もしなくてもいいと言った。なぜかと初江が聞くと、新治の母親はその理由を話してくれた。新治は自分の釣船が小さくてもいいからほしくて、工場でアルバイトして資金をためていたのだが、船はいささか値が高い。でも釣り客四人は新治が心根のやさしそうな素敵な女性を娶ったから祝いの祝儀に相当の額をだしてくれた。のだという。はじめは本当の事を言わず、隠し通そうかと思った。でも四人の釣り客は毎年くるおとくいさんだし、わかってしまう。それで、新治があなたを連れてきたいきさつを正直に話した。四人はちょっと信じられない、というような表情をしたが、それでもいっこうにかまわない、という。だからそれが理由だという。初江はちょっときつねにつつまれたような気がしたが、そんなものなのかと納得した。でもやはり、何もしないわけには行かない。
と言って色々な雑用を聞いてはこまめに働いた。四人の客は二泊三日の予定だったが,もう少しのばす、という。どうも、あなたのおかげらしい、と新治の母親は言った。
 三日目。四人は朝から乗合船で沖に出るが初江と新治にも一緒にこないかとさそった。
新治は釣り好きだったが、遠慮する、と言ったが、ぜひにと言う。四人は気さくな人ばかりである。初江は釣りは知らなかったが、責任のようなものを感じていたので、いかなければ、と思った。初江がまったく自分は釣りを知らない。というと、だからこそ海釣りの面白さを教えると四人の一人が言った。その日は凪だった。絶好の釣り日和。朝日に向かっての船出は心地よい。船はかなりの沖で停泊した。陸地が見えない。初江は少し恐怖を感じた。
板子一枚下は・・・。それに初江は泳ぎをしらない。釣り人は逞しい人間である。大自然と戦う人間である。四人の釣り人は初江に仕掛けをつけたロッドを渡した。初江にはわからないが、一人が、すこしでもブルッと手応えがあったら言うようにいって、各々、仕掛けをつくったロッドを海原に投射した。新治は艫に座ってみなの世話をした。四人の釣り人は、時々かかったと言って、力強くリールをまいた。新治はその時協力してあみですくった。釣り人は魚をつると初江に、これはかわはぎといって餌とりがうまくて釣り人をなやませる魚。でも味はとてもよく、刺身でも焼いてもうまい。などと、その魚について説明した。また、釣りや海のことをいろいろ教えてくれた。そうなると初江もだんだん自分も釣ってみたい欲求が起こってきた。だがぜんぜん手ごたえがない。待つこと数時間、初江は、「あっ」と言った。初江のとなりにいたある会社の社長のところに新治はいそいでいき、新治はいそいで役をかわった。社長は初江のさおを力強くつかんだ。たしかなあたりだった。社長は初江に言った。いいかい。まけ、といったら力強くリールをまいて。社長は魚のてごたえをたしかめながら適時、まけと言った。初江も真剣だった。格闘すること数分。ついに魚は姿をあらわした。やった。石首魚だ。初江にはわからないその魚は日の光をうけて美しい水のしたたりをひいている。
そのままじっとしてて、社長は初江にそう言い、慎重に指図して、ついにアミの中におさめた。みなが初江を見てパチパチと拍手した。初江にとってもこれほどの喜びを感じたことはなかった。

   ☆   ☆   ☆

 初江は一週間の休暇をその旅館で過ごした。新治の母親は彼女に色々な事を経験させてくれた。
その一週間は初江にとって最も充実した日々だった。
初江が帰る日が来た。新治は初江を駅に見送りに行った。
「本当にありがとうございました」
初江は自分の心がとてもすがすがしいのを感じた。電車が来た。新治は初江の住所も素性も知らない。新治は一瞬ためらいの表情を示したが、照れながら頭をかいて言った。
「また・・・来てくれる」
初江は瞬時に新治の気持ちを感じ取った。初江は誠実に、
「はい」
と答えた。初江は電車に乗った。思い出の景色が一望される。

   ☆   ☆   ☆

一週間の短い夏季休暇が終わった最初の出勤日。
同期の同僚は皆、海外旅行で日焼けしている。気をひきしめて、との課長の訓示。みな持ち場の席に着いた。初江の隣の同僚がふと初江に目をとめて聞いた。
「あなたもどこかへ行ったの」
初江は、
「はい」
と答えた。パソコンに向かってキーボードに手をのせた。単調な生活が始まる。しかし以前と全く同じではなかった。小さくはあったが、生きている事の喜びが心の片隅にあった。

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