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教室

僕は18歳になってから本を読み始めた。海外や日本の古典や名作と呼ばれるものだ。例えば、ヘッセや太宰治、夏目漱石とかだ。受験生だったわけだが、僕は本が読みたかった。

ある日、昼休みに自席で漱石の『三四郎』を読んでいた。そうしたら、前の席の女子が振り向いて声をかけてきた。

「へぇー、あなたって本読むんだ」

彼女が僕の顔と本を交互に見比べる。僕は答える。

「最近、読み始めたんだ」

「何読んでるの?」

「漱石の『三四郎』だよ」

「私も昔読んだなー。退屈だったけど。それ、面白い?」

「面白いよ」

僕は少々ムッとしながら言った。

「気分を悪くしたらごめんね。でもね、私も読んでる本があるの」

「なんていうの?」

「ユングって人の本」

「見せてくれる?」

「いいよ。ちょっと待ってね」

彼女は学校のカバンに手を突っ込み、ガサゴソとやってから本を取り出す。

「それ、ハードカバーって言うんだっけ?」

「そうよ。あなたは文庫本ね」

「お金があんまりないんだよ」

彼女はその言葉には反応せずに続ける。

「私はね、ずっと前から本を読んでるの」

「それ、真っ赤でずいぶんと大きな本だね」

「そう。君にはまだ読めないと思う」

「なんで? そんなに難しいの?」

「そう。あなたはまだ『三四郎』を読み始めたばかり」

「どういうこと? やっぱり難しいの?」

「そりゃーそうよ。とても難しいものよ」

「今の僕には理解できない?」

「無理よ。何度も言うけど、あなたは今、『三四郎』を読んでる」

「いつか僕にも理解できるかい?」

「全てはあなた次第よ」

僕は時々この時の会話を思い出す。その時の僕が何を理解していなかったのか、そしてこの時の会話は何についての話しだったのか、それを理解したのはずっと後になってからだった。ただし、僕にはユングは未だにさっぱりわからない。おっと、三歳の娘が僕を呼んでいる。

「パパー。絵本読んでー」

「いいよ。これからたくさん読もうね」

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