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異常性への盲目と慧眼【映画感想】「シンドラーのリスト」

「シンドラーのリスト」を観た。

きっかけはウクライナ在住の文学者から、「2022年以降のウクライナで、第二次世界大戦の芸術が見直されている」という話を聞いたこと。
現実が厳しいとき、人は厳しい芸術を恐れず、芸術をもって現実に立ち向かうという。その一例として「シンドラーのリスト」が挙がった。

たびたび書いているが、私は偶然の関心からロシアのウクライナ侵攻を注視し、様々な意味を考えるようになった。
当事者とはとてもいえないが、こうした背景から私は意識的にも無意識的にも、「じぶんの今」に引き付けるつもりで映画を観た。

シンドラーはユダヤ人を迫害するナチ党員だった。
シンドラーはユダヤ人の虐殺に疑問を抱くが、軍部はそうではない。シンドラーは有力者に賄賂を渡しながら1100人のユダヤ人を救おうとする。

当事者になったとき、自分が信じられない価値観に屈しないことは、たぶんとてもむずかしい。
(収入、家族、身分などが掛かっている中、すぐにnoと言える人が少ないから記録に残るのだ。)

心だけでも、いつでも異を唱えられるようにと思っても、それがいかに難しいことか。
映画のアーモン少尉がそうであったように、おそらく人間は、じつは自分が相手を愛しているといった事実すら建前や暴力に上書きしてしまうことがある。

多くの人、私含む、にとって、様々な社会の変数の中で、「自分は今、望まない価値観に堕ちている」と気づくことすら、難しいのではないかと思う。

戦時でなくても、私たちは気づけば怒りたくないのに怒りで物事を解決しようとしたり、仲良くしたい人に世間体や個人的感情からよそよそしくあたる。
戦時にあって「今、自分が持っているのは異常な価値観だ」と気付ける保証はどこにあるのだろう。

ときに、人の矛盾や弱さを克服することの難しさに、暗澹とした気持ちになってしまう。
生まれてしまった悪を止める手段などないと諦めたくなる。

だが、ではなぜ人は過去を映画に残し、反戦歌を歌い、ルポルタージュを書くのだろうか。
その「気づく力」を養うもののひとつは芸術であり、日常のはずだ。懐疑的になりかけていた心を、ウクライナの若者たちが芸術を支えにしているという話が支えてくれた。
おそらく映画に込められている祈りのことを、私はそう受け取る。

日常から有事の備えをしようということではない。
日常が戦時の助走になってしまうなどということは、本末転倒で悲しい。
けれど、私にとって転換点があったように、個々人の「事件」は常に人生の中にありふれている。そのひとつひとつの中で、じぶんが望むだけ自由で、じぶんが望むだけ高潔な心を保てることを、私は善への取り組みだと思う。

「これは善のリストです」

シンドラーの会社に勤めるユダヤ人会計士、シュターンは、救い出すべき1000人を記載したリストを示してそう言う。

「これは生命のリストです。そしてこの外は死の淵です」

個人の為す善は、すべては救えない。
シンドラーは100%の善人ではまったくなく、ナチ党員として金儲けを試み、無駄遣いもたびたび行っている。

それでも、映画のラストシーン、「無駄遣いしなければあと10人、2人、1人救えた」と泣き叫ぶシンドラーに対し、ユダヤ人たちは贈り物をする。
タルムード(聖書)の言葉が刻まれたリング──「一人を救うものが世界を救う」。

私もまた、以前は、個人が世界の大きな流れに対してできることはないと、絶望しそうになっていた。
けれど、映画や、同じ映画を愛する、世界のどこかにいる人々が求めている。一人を救い始める人を。

芸術は現実からの逃げ場としても機能する。
だが、芸術が好きだからこそ現実をまなざして分かることもある。私はそれを希望だと思う。

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