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雑感記録(5)

ここ最近、何だかモヤモヤする記事を見た。

「1回読むだけでも絶対に記憶に残る読書術」みたいな

要するに「記憶に定着させるための読書」的なものだった。

別に完全に否定するつもりは微塵もないのだけれども……でも!!


人は忘れる。

そういう生き物であると僕は少なくとも思っている。

誰しも、ちょっとしたことであれば忘れることぐらいあるだろう。

勿論、大切なことは忘れてはいけないとは思う。

だから、どこかにメモしたり、忘れないように努めたり

そういうことは大切だとは僕も重々承知の上だ。

でも……でも!!


本の内容ぐらいは忘れてもよくね!?


って常々感じている。

だって、忘れたら読み返せばいいんだもの。

例えばそれが「もう二度と読めない本」であったなら

それは死に物狂いで(?)記憶に残そうと読むかもしれないけど

仮に自分自身が所有している本

あるいは図書館へ赴けば読める本などは

そこにあるんだから、忘れたら読み返せばいい。

問題の根本は


「読書が消費化されてしまっている」


ことにあるのではなかろうか。

僕は以前「何度も同じ本を読み返せる人が凄い」という話を書いた。

正しくそれと通じるところがあるように思える。

目的が「読むこと」となってしまい

結局、自分自身がそれについてどう感じ

それについて自分ならどう考えるかということはどうでもよくて

量をこなすことで優越感に浸っている。


そもそも「読むこと」を目的にした読書ほど

つまらんものはないだろうと思う。

だって読んだらお終い。

記憶に残る訳もない。

そんな流れの中で

「記憶に定着させる読書術」ときたもんだ。

笑わせるなよ、と僕は感じてしまった。

読書の意義を殺してやしないか?と思う訳です。


確かに多くの書物に触れることで

新たな発見だったり、自分自身を変え得る機会というのは

人一倍は経験することだろう。

しかし、重要なのは中身の知識そのものでなくて

その知識に触れた自分自身の経験が大切なんだと思う。

その経験の、その刹那の感覚。

それこそが重要なのではないか。

これを得られただけでも随分と違うと思うけど…


もっと極端なこと言えば


本当に自身の琴線に響いたなら嫌でも忘れないだろ!


って思うのは果たして僕だけでしょうか。

記憶に残そうとしなくても

いい作品に巡り合えたのならそもそも忘れないだろ。

だったら、その忘れられないっていう経験について

もっと考えてみて、読み直してみるってのも

1つの読書なんじゃないかなと。


よしなに。

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『唐詩選』は置いとくとして

中野重治の『文学論』は何回読み直したか分からん。

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