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雑感記録(6)

ここ数年、といえど最近ではあるのだろうけど

高校国語がどうやら変わるらしいとの話で…

「おい、いまさらかよ!」とツッコまれてしまえば

もうそれまでなのだが、しかし文学を仮にも学んできた身からすると

些か納得しかねることもある訳だ。

何ですか?論理国語?

しかも何ですか?トリセツを読ませる国語?

西野カナかなんかですか?

まあ、そこは置いておくとして…

とにかく、そんな国語教育はいかがなものかと思う訳で。

そもそも「論理国語」とかいう名前も嫌いなのだが。


教科書ってある意味でベストセラー作品な訳ですよね。

多くの人に親しまれて、多くの人に時代を超えて読まれてますよね。

何というか、ハードルは高くないけれれども

読まれるべき作品がある程度網羅されてる

ある意味での良書な訳じゃないですか。

しかも、今本離れが進んでいる若者に対して

唯一、文学作品に触れることのできる絶好の機会というか

キッカケを与えてくれる言わば頼みの綱感がある訳ですよね。

その機会をですよ、トリセツですよ!契約書ですよ!


僕が大好きな作家で

中野重治っていう人がいるんですけどもね

その人が『文学論』でいいこと言ってるんですよ。これはぜひ紹介したい。


要するに、ひろい意味での文學と、せまい意味での文學とをわれわれが考える必要があると私のいつたのは、文學というものは―人間が學問したり働いたり、自分を表現したりすることは、たくさんにあつて、ケンカすることなども自己表現の一つのやり方でしようが、そういうひろい意味での人間の表現の仕方の一つとして、文學があるのであつて、自分を表現するには、言葉、文字を使うやり方としては、新聞記事もあれば法律の條文もあるのですから、そういうすべてをひつくるめて文學というものは考えられ、そのなかでそこから専門的なものとして出來てきたものをせまい意味での文學というという、ことになるでしよう。ですから戯曲とか、叙事詩とか、石坂洋次郎の小説とかいうようなものは、それ一つでポツンとあつたのでもあるものでもなく、それらはだんだんに、一方に法律の條文ができ、一方に何か看板のようなものができ、一方に何か廣告のようなものや、役場からの税金の通知のようなものができ、そういういろんなもののなかから、ちよくせつ法律に關係のないようなもの、そういう部分―なんといいますか、人間がたのしみつつ讀む、あるいは自分の氣持ちを傳えることをもつぱら目的とするような部分がだんだん發達し育つてきて、いまの小説とか詩とかいういわゆる文學が出來てきたということになります。
※引用は中野重治「一、ひろい意味での文學とせまい意味での文學」『文学論』(ナウカ社)1949年12月5日発行P.5、6より。


中野的には先に広告とか新聞記事とか法律の条文が先にあって

そこから小説なり戯曲なり、詩なりそういったものが生まれたと。

正直、この点に関しては承服しかねるところもあるが

肝心なのはそこではなくて。

つまりだ、一応「ひろい文學」という観点で見れば

契約書やトリセツも一応は文学として捉えることは可能であると。

それも文学として捉えられるのであれば

逆を返せば

小説や詩や、戯曲などといったものからも学べることは大いにある訳で。

中野は借金の督促状なんかを引き合いにして書いているけど

相手に借金を返させる程の感動的な説得の文章を書ければ

それはそれで文学の一端だろうと。


つまり、僕が言いたいのは

取り立てて小説などで論理的思考が養われない

だから契約書やらトリセツを読ませる

という思考回路に至る、いや厳密にいえば至らせてしまった

そのことを大いに恥じ入るべきであり

文学の衰退をここ最近、身に染みて感じている。

そんな花粉の酷い1日であった。

よしなに。


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