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大学院で得た「視点」

最近、様々な本や論文、世間のニュースを目にする中で、
「それ、本当か…?」や、「そのものの視方、どうなの…?」と、
自分のものの視方が変わったな、と感じることがよくある。
そして、それはどうして変容したのかを考えてみると、やはり大学院の講義や論文読解を通してだと感じている。

当初、大学院に入学してから、感じていたことを素直に書けば、以下のようなものだった。

「先生方(研究者)の見方って、それ、ちょっとひねくれ過ぎでは…?」
「その角度からいちゃもん付けるのか…。」
「その発想、どこから出てくるの…?」

教育現場で働く中で、県や市町村、学校の教育目標や学習指導要領の文脈に則り、それを解釈した上で目の前の児童に合うように、楽しく効果的な授業を構築することが大切だと考えてきた。
平たく言えば、素直に実践者として真面目に取り組んできたと考えている。

しかし、ここの視方は「実践者」であって、「研究者」としては不適だったというのが、今回の気付きだった。

大学院に入学する前や、入学してから頻繁に問われることは、以下のようなものがある。

「何に問題意識(課題意識)をもっているの?」
「その問題の、どの部分に注目しているの?」
「その問題に対して、自分はどのような考えをもっているの?」

これらの問いは、問題意識や研究計画が明確でない時期は、問われる度に、「ぐぬぬ…。」と苦しむことがよくある。

これも大変よく言われるが、大学院は「学ぶ」ところではなく、
「研究」をするところで、

「研究」を行うためには、各々が抱えている課題が無ければいけない。
そして、それを解き明かすために、「素直」に目の前の事象を受け入れているだけではいけないのである。

「素直」さは、学習者として必要な素質であることは間違いないし、人間関係を構築していく上でも、不可欠なスキルの一つだと思う。
だが、それは「研究者」としては及ばない。
目の前の事象を「ん?ちょっと待てよ、本当か?」と、立ち止まり、考えを持てることが必要になる。
そして、その疑問を突き詰めていくことは、学問的誠実性にも繋がっていくだろう。

そうすると、前述の自分が先生方に思っていたことは、むしろ適切な評価であり、それだけ物事の問題意識を明確に指摘できるということになると考えている。
実際に、自分の研究に対して、先生方がぽろっと一言こぼす指摘は、あまりにも的確で、深いものが多く、一撃必殺のように重く苦しい。
だが、示唆と学びに富み、次への足場になっていく。

自分も、いつかそんな珠玉の一粒のような指摘をしてみたいと夢みながら、今日も研究の荒波にもまれている。

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