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ケストナー 『飛ぶ教室』

児童文学を読み直して、時間や歴史をキーワードに考察してみたい。
シリーズにしていきたいと思います。

第一回は、ケストナーの「飛ぶ教室」にしました。エンデかケストナーかという、ドイツ児童文学の巨匠。

僕にとっての作品の要点:

題は、作中のこどもたちが作る演劇の題のこと。ギムナジウムのこどもたちの喜怒哀楽をめいっぱい描いた作品。魅力的な大人たちがそれを見守る。自身の体験を思い出しながら。


こどものころ読んだと思ったけど、どうも記憶に薄い。もしかしたら読んでいなかったのかも。いずれにしても、今回読んでたいへん良かった。

心を動かされた言葉を引用してみたい。

賢さのない勇気は、乱暴に過ぎない。勇気のない賢さは、冗談にすぎない。世界の歴史には、勇気はあるけれど馬鹿な人間や、賢いけれど臆病な人間がたくさんいた。それはおかしな状態だった。

作中の語り手から、若い読者へのメッセージの一部。

ただね、大切なことに思いをはせる時間を持った人間が、もっとふえればいいと思うだけだ。金や、地位や、名誉なんて、子どもっぽいものじゃないか。

「禁煙さん」が、親友に語る言葉から。

どうして私にたずねてくれなかったのかな? あんまり信頼されていないのかな? だったら私自身、罰せられるべきだ。きみたちの違反には私も責任があるわけだから。

喧嘩騒ぎを起こし宿舎を出たこどもたちに、舎監の「正義さん」が語る言葉。


物語には、作者が生きた時代のドイツの空気感がある。登場するこどもたちは、厳しいエリート教育を施すギムナジウムにありながら、心を許せる大人に出会う。

物語を貫く「こども観」は、90年前の作品とは思えないくらい、今風だ。個々のこどもたちを、「小さな大人」ととらえるような、個性の尊重が作品の根底にある。

こどもたちは、それぞれに痛みや重さを抱えている。それでも、タフに生きろと、そんなメッセージが作品には随所にちりばめられている。

ボクシングで言うように、ガードを固めることだ。パンチを食らっても、耐えられるようになっておこう。でないと、人生最初の一発でふらふらになる。人生はとんでもなく大きなグローブをはめているものだ。心の準備がないまま、そんなパンチをもらったら、あとはハエが咳をしただけで、リングに長々と伸びてしまう。

作中の、語り手のことば

ドイツではヒトラーが首相に指名される年に、この作品は誕生した(1933年)。ナチスドイツとケストナーは、想像通り、緊張関係にあった。ただ、トーマス・マンやヘルマン・ヘッセらのように政権に目の敵にされたわけでもないらしい。

ナチス時代を、ケストナーは自身のバランス感覚を持って、ずぶとく生き抜いた。

ケストナーのこどもを見る目は、あたたかい。今風の個性尊重の視点はあるが、明確に違う部分もある。それは過保護じゃないということ。こどもはそれぞれに越えるべき壁があって、壁の種類は千差万別。金持ちにも貧しいものにも、壁がある。

壁があるという事実は平等。現代の教育で重視される「みんなおんなじ」式の平等性などは、1930年台のドイツでは甘すぎて理解されないかもしれない。

ケストナーは、お前たち、それぞれの壁を、それぞれのやりかたで越えなさい、と語りかける。きっとできるから、と。

大人にできることは、単純明快。こどもたちの現状に、心をよせること。こどもたちの状況を深く理解すること。

大事なのは、アクティブラーニングをさせるとか、道徳の評価をするとか、そういう問題ではないんだぜ。歴史総合とか探究とかいう前に、まずは目の前のこどもたちの時代、時間軸を見るんだぜ。

もっとも大切なことを大人が忘れなければ、こどもは一人でもちゃんと大きくなっていくんだぜ。

僕は、この作品に出てくる「正義さん」や「禁煙さん」には、こんな感じで軽く説教された気になりました。

「正義さん」も「禁煙さん」も、少年たちと同じギムナジウムの卒業生。

大事なのは、自分がこどもだったころの辛さや苦しさを忘れないこと。
自分の人生を、こどもたちの人生に重ねること。

そんな感じの本でした。

何となく、作中の大人たちには、ゆたかな「歴史感」があるんじゃないかという気がする。

彼らは、自分が歩んできた人生(時間軸)を基盤にして、教育を語る。

「正義さん」や「禁煙さん」は、自分の人生を作中では何度かふりかえる。それと同じように、彼らに歴史の話を聞いてみたかった。たぶん、抜群におもしろいはず。

自分の歩んだ距離や、過ごした時間を軸に、言葉を選んでいく。
「飛ぶ教室」の大人たち。

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