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【映画#37】「太陽はひとりぼっち」『東京湾景』より

こんにちは、三太です。
先日、部活動の新人戦がありました。
結果は初戦で競り合った結果、惜敗。
こちらも上手くなっていると思っていたのですが、当然ですが相手も上手くなっていました。
まだまだ試合を想定して練習できていなかったなと反省している今日この頃です。
またこれから頑張ります。

では、今日は『東京湾景』に出てきた映画、「太陽はひとりぼっち」を見ていきます。
『東京湾景』内に出てくる映画は3作ありますが、そのラストとなります。
この作品は『東京湾景』という話のエンディングに深く食い込んでいるので、そこら辺も書けたらと思っています。

基本情報

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
出演者:ピエロ(アラン・ドロン)
    ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)
    リカルド(フランシスコ・ラバル)
上映時間:2時間9分
公開:1962年

前回紹介した「砂丘」に引き続き、こちらも監督はミケランジェロ・アントニオーニです。

あらすじ

リカルドとヴィットリアという男女が話し合いの末、別れを選ぶというシーンから物語が始まります。
夜通し話し合った結果、どちらかというとリカルドはまだ未練があり、ヴィットリアが別れを決断したようです。
けれども、その別れの理由についてリカルドに問われても、ヴィットリアは「よくわからないし、自分もつらい」(けれど、もう一緒にはやっていけない)と言うばかりです。

そのあとは、証券取引所が主な舞台となります。
ヴィットリアの母はここで株の売買をしてお金を稼いでいました。
けれども、株価が暴落し、大損となります。
ヴィットリアの母が頼っていたのが、ピエロという若手でやり手の証券マンでした。
母を通じて、ヴィットリアとピエロの仲が少しずつ近づいていきます。
二人の愛の描かれ方が注目ポイントです。

設定

・信じ切れない愛、複雑な愛
・ヴィットリアが幼い頃に父は亡くなっている

感想

この作品は終わり方が唐突でした。
最後は、いくつかの風景が流されて、ピエロとヴィットリアの関係がどうなったかは明示されません。
けれども、もしあのドラム缶の前が待ち合わせ場所だとして、今夜も会おうといっていたのに、二人が会わなかったのなら、二人の仲はすれちがったのかもしれません
なんとなく音楽もそういう悲し気な音楽ではありました。
そういう意味では悲恋の物語といえそうです。

愛を信じられない、特にヴィットリアがそうだったのですが、この設定は『東京湾景』と似ています。
けれども、結末への持って行き方は真逆だと感じました。
もしかして、この映画への吉田修一さんなりのオマージュが『東京湾景』だったのかもしれません

あとは、証券取引所、つまり株の売買が何を表すのかはなかなか難しい問題だと思います。
テーマが複雑な愛だと思うので、男女の関係は株のように浮き沈みがあるということでしょうか。
そうではない安定した愛を求める必要がある、けれども人間はどうしても株、つまり投資で一攫千金というようなものを求めてしまいがちということを言いたかったのかもしれません。

噛み合わぬ別れ話と窓の秋

その他

・映像がモノクロ
・ウィキペディアより
→ミケランジェロ・アントニオーニ監督の愛の不毛三部作の第3作
→1962年度カンヌ映画祭審査員特別賞受賞

『東京湾景』内の「太陽はひとりぼっち」登場シーン

今回はかなりたくさんの引用がありました。
少し長くなるのですが、この話のエンディングに大きく関係しますので、引用したいと思います。

美緒は受話器を肩に挟みながら、シーツを剝がし始めた。「誘ってくれるのは嬉しいんだけど、何度も言うように私には・・・」「彼氏がいるんだろ?分かってるって。だから、そういうんじゃなくて、上京したてでまだ知り合いのいない友人を助けると思ってさ」「何、観に行くのよ?」「それがさ、銀座でミケランジェロ・アントニオーニの特集やってんだよ」「嘘?私も大好き」「マジ?」「『砂丘』とか、『日蝕』とか、大好きよ」「おっ、『日蝕』なんて言っちゃうところを見ると、かなりの通だねぇ。・・・その『日蝕』を今やってんだよ。劇場で観たことある?」

『東京湾景』(p.251)

このシーンは、美緒と井上幸治という男性の会話のシーンであり、「砂丘」で引用した箇所と同じです。
美緒は井上と、このあと映画を見に行くかというとそうはなりません。
美緒は、亮介の同僚の大杉の話を聞き、青山ほたるが書いた自分たち(美緒や亮介)をモデルとしたであろう小説内小説「東京湾景」を読んで、亮介の胸にある火傷の痕ができた経緯を知ります。
そして、そのあまりにも一途な思いに心を動かされるのです。
そのため、井上には「映画には一緒に行けない」と断りを入れます。

しかし、話は簡単には進みません。むしろ亮介とのずれが起こります。
美緒は亮介との愛なら信じられるという思いになっていますが、亮介は美緒に対し疑いの目を持ち始めていました。
亮介は美緒に他に男がいるということを真理から聞いていたのです。(真理に目撃されていたのは井上と会っていたところであり、しかし井上との肉体関係はありませんでした)
そのことを美緒に打ち明けます。
美緒はそれを聞き、そのことを知っていて自分に合っていた亮介に対しショックを受けます。
すんなりとはいかない二人なのでした。

まだ「太陽はひとりぼっち」の引用は続きます。
むしろここから作品全体のあらすじを追うかのように怒涛の引用が続きます。

「『日蝕』っていうミケランジェロ・アントニオーニの映画なんだけど、邦題が『太陽はひとりぼっち』ってダサいの。別に、日蝕は日蝕でいいじゃないね。わざわざ『ひとりぼっち』なんてつけなくても」「アラン・ドロンが株の仲買やってる映画でしょ?」「観たことある?」「前にビデオ借りたんだけど、あまりにも退屈で寝ちゃった」「退屈だった?」「退屈よ。たしか、あの女優さん・・・、モニカ・ヴィッティだ、彼女が婚約者と別れるシーンから始まるでしょ?部屋の中で何を話すわけでもなく、ふたりで行ったり来たりして、それを延々カメラが追って。たぶん、その辺りですでに睡魔に襲われてた」「何言ってんのよ、あのシーンがいいんじゃない。『いつ愛が消えたんだ?』って、婚約者に訊かれたモニカ・ヴィッティが、『・・・ほんとに、分からないの』って答えるところなんて、ちょっと鳥肌立つくらいカッコいいじゃない」昨夜、観たばかりの映画の興奮が蘇って、美緒が力説し始めると、佳乃が意味深な顔をして対岸の品川埠頭に目を向ける。

『東京湾景』(pp.299-300)

会社の喫煙ルームで美緒と佳乃が話すシーンです。
美緒は「太陽はひとりぼっち」を絶賛し、佳乃は退屈だったと述べています。
佳乃が美緒との買い物をドタキャンしたため、井上と行くはずだった映画を美緒は一人で見に行きます。
それを思い出しながら話しているのです。

亮介とのすれ違いがあり、美緒は亮介との関係をどうするか悩んでいました。
考えた結果、亮介に電話をかけ、久しぶりに会う約束を取り付けます。
ここでまた引用が入ります。

ミケランジェロ・アントニオーニの「日蝕」は、ローマの新興住宅地に建つモダンなマンションの一室から物語が始まる。白黒の映像でもすでに夜が明けていることが分かる。朝まで続いていたらしい長い別れ話は平行線のままで、男と女は部屋の端と端に座り、すっかり疲れきっている。「君を幸せにしたかったんだ」と男が言う。「でも、私は幸せじゃなかった」とモニカ・ヴィッティが答える。「いつ愛が消えたんだ?」「・・・本当に、分からないの」「君のためだったら何でもするよ」「お願い。もう構わないで」「男ができたのか?」「だから何度も言ってるじゃない。そんなことが理由じゃないの」「じゃあ、何が理由だ?」「・・・分からないの」モニカは部屋を出て行く。早朝、まだ誰も歩いていない新興住宅地の整備された道。整備されすぎて、寒々しいほどの道を、ゆっくりと歩いていく。

『東京湾景』(pp.305-306)

このあと、美緒は亮介との待ち合わせに自分は行かないのではないか、そして、自分と同じように亮介は来ないのではないかという思いを持ちます。
心と心で通じ合う愛を信じ切れていないのです。
そして、また引用です。

その朝、婚約者と別れたモニカは、母が通いつめる証券取引所で、アラン・ドロン扮する若い株屋の青年と出会う。音のなかった新興住宅地の映像から、激しい怒号が飛び交う証券取引所へと場面が変わる。そこで出会ったふたりは、少しずつ、本当に少しずつ惹かれ合っていく。「この横断歩道を渡ったら、君にキスする」アラン・ドロン扮する青年が言う。横断歩道の真ん中で、モニカはふと立ち止まる。「まだ渡ってないわ」何の変哲もない町の舗道を、ただ手を繋いで歩いているだけ。どこにでもあるような店で、ただコーヒーを飲んでいるだけ。取り立てて美しくもない芝生で、ただ横に並んで寝転がっているだけ。それなのに、「まるで外国にいるみたいだ」と青年は言う。「あなたといるとそんな気がする」とモニカも答える。ある日、青年がモニカを自宅に連れていく。広く、豪奢な邸宅の壁には、美しい絵画が飾られ、窓から見事な石畳の街並が見下ろせる。「ここに住んでるの?」とモニカが尋ねる。「僕が生まれた家だ」「住んでるのは、どこ?」「狭いけれど、アパルトマンがある」「なぜ、そこへ連れてってくれないの?」「なぜって・・・」

『東京湾景』(pp.307-308)

このあと、美緒は待ち合わせ時間に間に合う時間にアパートを出ます。
そして、また引用です。

休日のオフィスで、実家のソファで、街の舗道で、モニカは青年とキスをする。ガラス窓の両側からお互いの唇を重ね合い、そのまま青年の乱暴な愛撫を受け入れる。オフィスのソファで抱き合いながら、ふたりは公園のベンチで見かけた他のカップルたちを真似し、じゃれ合う。ずっと見つめ合っていたカップルがいたと言っては、それを真似し、指を噛み合っていたカップルがいたと言っては、それを真似して笑い、床を転げ回る。オフィスから帰ろうとするモニカを、青年がドアの前で抱きしめる。力強く抱きしめられて、これまでに見せたこともない恍惚の表情で、モニカも強く、青年のからだを抱きしめる。「明日も会おう」と青年が言う。「・・・明日も、あさっても」と。「次の日も、その次も」とモニカが答える。「その次も」「今夜も」「八時に、いつもの場所で」青年がそう呟く。モニカの指が、青年の頬と唇を撫でる。しかし、その夜、ふたりは待ち合わせ場所に現れない。この映画のラストには、ただ場所だけが映し出される。ふたりが来るはずだった場所。ふたりが「いつもの場所」と呼んだ街の舗道だけが、延々と、いろんな角度から映し出されるだけ。「いつもの場所」を、ただ通り過ぎていく者がいる。「いつもの場所」にバスが停まる。そのバスからも彼らが降りてくる気配はない。ただ場所だけがそこに延々と映し出されて、この映画は終わるのだ。

『東京湾景』(pp.309-310)

このあと、寿退社する佳乃との会社での別れの会話が入ります。
そして、亮介との待ち合わせに行かなかったことがわかりました。

土曜日、銀座までは行ったのだが、美緒は待ち合わせ場所に行くことができなかった。なんで行けなかったのか、自分でも分からない。約束の時間よりも十五分ほど早く着いて、なんとなく「日蝕」を観た映画館のほうへ歩いていった。遠くからでも、すでに「日蝕」が終わっていて、別の映画が始まっているのが分かった。通りに並べられた看板には、台湾の青春映画のポスターが貼ってあった。

『東京湾景』(p.312)

自分でもよく分からないが、待ち合わせ場所に行けなかったみたいです。
また、「日蝕」つまり「太陽はひとりぼっち」が象徴的に使われているように思える文章でもあります。

二人の愛は薄れてしまったのかと思っていた、そんなとき。
亮介から電話がかかってきます。
そして、感動のエンディングへとつながっていきます。 
以上、かなり大事なシーンで「日蝕」、つまり「太陽はひとりぼっち」が使われていることが分かりました。
青年とヴィットリア(モニカ)のように亮介と美緒もなりそうで、二人には別の道が用意されていると私は考えました。

ちなみに今書いたように、作中ではモニカという名前ではなく、ヴィットリアという名前です。
けれども『東京湾景』での引用はほぼモニカです。
吉田修一にとって、モニカであることが大事だったのかもしれません。(確かにモニカ・ヴィッティは美しく、アラン・ドロンはかっこいいです)

吉田修一作品とのつながり

感想あるいは登場シーンでも述べましたが、「信じ切れない愛」という点では、この映画が引用されていた『東京湾景』と大いにつながると思います。
ただ私としては『東京湾景』の方が、エンディングが明確に描かれていて、なおかつ希望のあるものなので好きです。

以上で、「太陽はひとりぼっち」については終わります。
これほど深く考えない吉田修一作品に食い込んでいた作品は初めてだったかと思います。
ひとまず『東京湾景』は「太陽はひとりぼっち」に対する吉田修一のオマージュだったという説を取れるかなと考えました。

それでは、読んでいただき、ありがとうございました。

画像の出典:映画ドットコム「太陽はひとりぼっち」

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